愛のなかで

この世のどんなことも
はじめから意味が与えられているのではない

水のなかに浮かぶ粒子のように
無限の素材が漂っているなかで
あなたがそのいくつかを捉え
それらを互いに関連させているんだ

そうして意味が現れる

逆に言えば意味を与えられる以前の
ただ漂っているだけの素材は
極めて純粋な何かであり
それが何であるかはまだ決定されていない

だからあなたが人や物事を前にするときは
もちろんそれが誰であり
それが何であるのかを知っているけども

しかしそうして意味が与えられる以前の
純粋な何かもそこにあるんだ

たとえばその人についての過去や
自分のさまざまな記憶が
その純粋なものを不純にさせる

つまりあなたにとっての
固有の意味を持ってしまう

過去や記憶もまた
いろんな要素が関連してできた”作品”だろう

だから意味づけられたもの同士が
また新しい意味を作るのであって

そうしてみれば己の現実や人生が
何らかの固定的な意味を持っているのは

それを成り立たせている無数の作品があり
それら無数の作品もまた
より小さな無数の作品から
成り立っているからこそにある

ゆえに結合をどんどん解いていった先に
純粋な何かに到達することになるが
しかし話しているように
その純粋な何かは
まだ何であるのかが決定されていないゆえ
直に見たり触れたりすることができない

見たり触れたりできるなら
もうそれは何らかの意味が与えられたもの
つまり己の認識上で
そのように見えているものであるからだ

そしてここでさらに
頭を柔らかくする必要があるが
こうして認識以前の何かがあるという”話”もまた
すでにあなたのなかで意味化されている

この話を読んでいるのだからね

そんなわけで
私たちは独自の意味世界を描き
そしてその意味世界のなかで
自らの苦楽を生きている

あれが欲しいとか
あのことは起きてほしくないとか

そしてときに宗教の教えのように
意味世界を外側から眺めさせるという”意味”を
意味の外側へ飛び出すためのハシゴとして
駆け上ったりもする

だがそれ自体が意味であるゆえに
それだけではこの作品の外には出られないだろう

つまり神様仏様と拝んでるだけじゃ
あなたのこの世という作品
隅々まで行き渡ったこの意味世界のなかで
自ら作り出した偶像を崇めているだけだということだ

じゃあ神とは本当はなんなのか

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