本のなかの本

スピリチュアルや宗教に関心を持ちはじめたとき
誰でもはじめは
その論理的な枠組みの”なか”を探求する

その結果として
たとえば宗教儀式のような形式を学んだことが
その宗教自体を会得したかのように考えてしまう

お寺なんかでの作法がそうだね

修行中のお坊さんのなかには
そうして作法を極めることが
仏道を極めたことだと取り違えている人が
結構いたりする

もちろんそうじゃない

スピリチュアルもそうで
いろんな体系や知識を熟知することが
ゴールではない

それらはようやくスタートラインに立ったのであって
たしかに知識や作法はその分野を”嗜む”ためには
必要な道具ではあるけども

しかしそればかりを積み重ねてしまえば
自らをその枠組みの”なか”に
強固に縛り付けてしまうことになる

これが「眠り」と呼ばれるものだ

 

“偶像”の崇拝をやめさせること

じゃあスピリチュアルや宗教の”真の目的”が
その知識の習得や作法でないとするならば
いったい何のためにそれらは存在しているのか

それはまさに
「自らが単なる形式である」ことを
“自ら”で語っているということにある

これはたとえば
社会的な成功を遂げた企業の経営者や
歴史的な偉人たちが語る話にしても同様で

つまりスピリチュアル本であれ仏典であれ
はたまたビジネス本であれ
あなたがそれを読んで
どこか奥深いものを直観させる内容ならば
それは「形式で人の世は成り立っている」ということを
その著者が暗に述べているからなんだ

だから何を通じて
それを伝えるかの違いだけであって
“核心”は同じ

それがたまたまスピリチュアルや宗教といった
“形式的な枠組み”にすぎず
人間世界のあらゆる一切が同様にある

それゆえスピリチュアルや宗教は
それ自体が”二重の意味”を持っているわけで

つまりスピリチュアルや宗教は
まさに自らで
「”この枠組み”に囚われるな」と
伝えているんだね

 

取るに足らない毎日?

これは知識体系や作法だけを
追い求めていた者にとっては耐え難い真理であり
むしろ理解もできないだろう

なぜなら彼らは
その蓄えたものが幻であるならば
なにをしていいのかわからなくなるからだ

たしかに足場としていたものが
ありもしない幻想だったと知るとき

いわばどちらが上で
どちらが下なのか見当もつかない宇宙空間に
放り出されたような感覚に襲われる

だがそうして”一切”が
枠組みや仕組みであることを知るからこそ
あなたの独創的な人生(つまり枠組み)を
生み出していけるわけで

ゆえに分野を問わずに(つまり固執せずに)
広く世界を捉えることは大切でね

その広い把捉のなかに
分野という境界線を超えて通底するもの
みえてくる

それはつまり
スピリチュアルでも商売でも恋愛にしても
また起床や食事といった毎日の生活そのものに
常に”核心”が秘められているということであり

あなたが奥深いものを感じる読書をしたように
なんでもないこの日常を深く読み取れるならば
そこに”真の足場”がみえてくるんだ

 

本のなかの本

その”真の足場”に立ったとき
この豊かな世界を
あらためて”豊か”に感じるだろうし

またあなたの目の前にいるすべての人もまた
“あなた独自の形式”によって
そこに現れていることを知るだろう

つまり

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