“魂”のなかみ

差別や偏見など
いまは悪い意味での個人主義が
際立っているせいもあって
不寛容な時代だといわれる

人種差別、国籍差別、能力差別、性差別
いろいろあるね

だがたとえば
ある外国に友人がいたり
恋人がいたりすれば
その国の差別をしなくなるように

結局は「知らない」がゆえに
妄想で相手を作り上げることになり
その妄想自体に恐れたり
嫌って避けたりしているだけにある

もちろんそうは聞いても
言い分はいろいろあるだろうし
以下もいろんな例題が出てくるが
そのたびに意見が浮かぶかもしれない

だけどもそれらの例題は
ある主旨のために持ち出しているだけだから
その意味がわかるまで
“言い分”はひとまず脇に置いておこう

タイトルの意味もそのときわかる

話を戻すけども
これは異性に関してもよくあることであり
異性を深く知らないからこそ妄想が膨らみ
その妄想そのものを過剰に求めたり
逆に過剰に忌み嫌ったりする

ところが異性の集団のなかで過ごすほど
もちろん程度や性格などもあるが
完全に切り離されていたよりは
過剰な反応はしなくなる

だから「相手を知ること」は大事なんだね

かといって直接に声をかけて
知り合う必要はないわけで

そうではなく
得体の知れない相手を生み出す
その”妄想力”を

同じ人間としての痛みや喜びを
感じられる”共感力”や”想像力”として
使い直すだけでいいんだ

しかしそれらが
妄想となにが違うのかといえば

手記の一番最後で話しているように
実際に声をかけて知り合ったよりも
その相手のことを
本当の意味で知ることができるからにある

 

人は豹変する

その前にもうひとつ例題を挟んでおこう

近年問題になっている煽り運転だけども
もちろん悲痛な事故も多くて
あってはならないことだが

しかしこの問題は”人間”の無意識的な心理を
浮き彫りにしているところがあって
だからあなたが車に乗らないとしても
心に留めておくべき示唆があるといえる

というのは日常のあらゆる対人関係
つまり家庭や会社、街先の交流のなかで
あなた自身が被害者にならないように

そして逆に知らずのうちに
あなた自身が加害者にならないため
ヒントが示されているからだ

つまり煽り運転自体はマイナスな物事だけども
しかし円滑な人間関係を実現する秘訣が
こうした社会問題を通じてみえてくるわけだね

さて、チューリッヒ保険会社の
「あおり運転実態調査」によれば
アンケートに答えたドライバーのうち
煽り運転をされた経験のある人は5割に及ぶ

結構な数だといえる

そして煽り運転の被害に遭わないように
以前よりも意識して運転している人は
7割強だったという結果が出ている

もちろん周囲に誤解されないような運転や
ドライブレコーダーの設置が
回避策として有効であることは間違いないけども

だがそうした対策自体が
煽り運転者を”制御”できるわけではない

彼らは突然に現れて
そしてあなたの「まさかの隙」をつくように
“被害者意識”によって報復してくる

つまり彼らの突発的な思考プロセスに
先手を打つ方法について考案してみることは

トラブルの遭遇をより遠ざけるだけでなく
また自分も彼らのように豹変してしまわないための
ひとつの備えとなるわけだ

 

その”理由”は本物?

ではその”先手”には
どういうアプローチがあのか?

ここでまず冒頭で話した
「知らないから攻撃する」を思い出してみよう

つまり人種差別や民族差別など
いわゆるヘイトな感情を持つ人もまた
煽り運転の加害者たちと似通ったプロセスにある

つまりカッとした衝動は”反動的”であり
そもそも自発的に選んだものではないということだ

ところがその反応的な感情に対して
さまざまな”理由”を集めて補強され
その感情が正当化されていくことになる

すると逆転現象が起こる

つまり
「自分には正当な理由がある。”だから”腹が立つ」
となるわけだ

反射的な心の動揺が最初にあり
その不安感を取り払いたいがために
後付けの理由を集めたにすぎなかったことが
まさにその手順において
事実が”逆転”してしまうことになる

本当は自ら選んでもいない感情だったのに
その事実は完全に葬られて
「自分は怒り心頭だ」となるんだね

もちろん当人は
「自分はちゃんと自覚して話してる」
というだろう

どれだけ思い返してみても
そこには正当な理由があるからだ

 

あなたは昨日のあなただった

じゃあ加害者本人さえも
自らの自己欺瞞に気づいていないものを
いったいどうして
説得することができるのか

たしかに
怒っている人を説得するのは難しい

彼には起こるべき理由が
“ある”のだからね

これはいつも話している
“自分”という名の「理解の範囲」の話でもある

つまりこの「理解の範囲」こそが
“自分”が体験する現実の枠組みにある

前に手記で話した箇所を引いておこう

──

たとえば意味のわからない本や
意味のわからない映画なんがあり

そういうものを前にすると
だいたい人は
「つまらない」とか
「この著者はわかってない」とか
そうした批判をすることになる

だが本当にその制作者は
わかっていないのだろうか

そもそも「わかる」とはなんだろう?

要するに「意味がわからない」とは
その解釈する人の”意味づけ”を
単に超えてるだけのことであり

だから「わかる」とは結局のところ
自分の色に塗りつぶせるかどうかにすぎない

しかしそれは
自ら意味づけをしてるその現実世界に
己自身を閉じ込めていることになる

よって他人や出来事に対する恐れや苛立ちは
今後も繰り返され
また喜びや満足もお馴染みのものでしか
やはり味わうことができない

──

この手記では
「己の理解の範囲=人生体験の限界」を
述べているのだけども

それはたとえば
現代の私たちからみた「中世の人」が
まさか自分が”中世の人”だなんて
わかるはずもないということだ

彼らは常に”最先端”を生きていたのであり
自分たちが”中世”なんて概念があるはずもない

明日の自分からみれば
ここにいるあなたは「昨日の自分」だけども
もちろん普段にそんな自覚などないようにね

だがもしあなたがいまここにいる自分を
「昨日の自分」や「先週の自分」であると
“自覚”できたとするならば

そのときあなたは
過去、現在、未来といった時間の流れからは
離れた視点に飛び出しているはずだ

実際”自覚”してみればわかる

もはやあなたは
時間のなかに存在している自分ではなく
その自分をみつめる何者かにある

たとえば歴史でよく語られることのひとつに
「その時代に生きていた人が
実はその時代のことを一番知らない」
という逆説がある

あとから振り返ってこそ
それがどのような時代だったかが
わかるからだが

つまり”その場”から離れてこそ
そのときの自分が
「中世の人だった」とか「昨日の自分だった」と
ようやくその全貌がみえるんだね

これは先日相談者の方に話したことだけども

──

難しめの本を読み進めたときにはじめて、最初のページで理解していたことが実は思い込みだったとわかることがあるだろう? だがそれは読み進めたからこそ、わかったんだ。

これは人生も同様であり、だから同じ繰り返しを続けている限りは、いまの自分が思い込みを信じていることに気づけないんだ。

──

つまり信念の枠組み(観念世界)は
その外に出てみなければ
その枠組みがどんなものであるのかは
わからないのであって

だがこの枠組みこそが
あなたの”そのときの魂”のことであり

だから「自分はなぜこのように思考するのか」
という”根拠”は
その思考する自分そのものからは
決してみえてこないんだ

 

加害者も被害者

さてここで
煽り運転の被害を受けているときを
想定してみれば

まず話したように
その相手は自分がなぜ怒っているのか
本当はわかっていない

もちろんその人は理由や言い分を語るけども
実はそれらが
心のなかの「後付け」だということに気づいていない

つまりその相手が
なぜ心を荒立てているのかといえば
「理解できないこと」に直面しているからにある

ゆえに別の観点からすれば
その相手は”被害者”であり
つまり被害者意識に見舞われている

だが実際、加害者は被害者であるからこそ
犯罪や事件が起こるんだ

“人間の世界”とは実に滑稽だろう?

そして理解不能な相手(つまりあなた)に
自分の言い分を理解させようとしているわけだ

よってあなたが怯えずに
相手の言動を冷静にみてみれば
その人は”自らの枠組みのなか”での整合を保とう
としているにすぎないのであって
つまり自分の理解で相手を塗りつぶして
安心しようとしている様子にあることがわかる

だからここに鍵があってね
つまり煽り運転を事前に回避するには

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