月と幸福

欲しかったものを手にしても
大切な人とめぐり会えても
いつかは別れがやってくる

自転車のペダルを踏み出せば
新しい風景が現れては
後ろへ消え去っていくように
あらゆるものは
人生のなかで現れては終わっていく

だがそれでも永遠に終わらないもの
ひとつだけある

それは「学ぶ」ということだ

 

“人生”を学ぶ

私たちは日々の物事を
ただ経験するだけではない

むしろただ経験しているだけでは
失ったことの悲しみばかりが膨らんで
その大きくなり続ける風船に
心は押しつぶされてしまう

それゆえに失敗を恐れるようになり
また過去の心の傷を引きずるようになる

自転車のペダルを踏み続けることが
恐怖でしかないが
踏み続けないと自転車は倒れてしまう

だけども私たちは
そんな日々の物事を通じて
「学ぶこと」ができる

たとえば
自分の愚かな過ちで抱えた悲しみや後悔を
繰り返さなくなる

もちろんそのためには
「自分が愚かだったこと」を
学ばなければならない

つまり学ぶには
まず学び方を「学ぶ」必要があるわけで
まさにそれこそが
釈迦やイエスが伝えていたことなんだ

生きながら生きることを学び続ける
ということだね

 

「学ぶ者」と「教える者」

ところでここにひとつ疑問が出てくる

「生きること」を学ぼうというとき
“誰”からそれを教わることができるのか
ということだ

知らない分野や未経験の仕事については
その道の人から教わることができるだろう

だけども自らの人生そのものを学ぶとき
誰がそれを教えてくれるというのかといえば
それは人生を経験している”己自身“しかない

すると不思議なことがみえてくる

というのは「生きること」において
教えることと学ぶことは同一となるからだ

これも古来より
世界のいたるところで伝えられてきたことだね
親が子どもに何かを教えるとき
それは同時に親が学んでいるんだみたいにね

だが”その意味”を正しく受け取る必要がある

たとえば
二輪の自転車が倒れずに立っていられるのは
自転車が走行しているからであり
しかし走行するには立っていなければならない

それは“同時”になされるわけで
動き続けていることそのものにある

つまり
自らが教えて自らが学ぶというのは
学ぶこと自体が自らで教えていることになるんだ

ゆえにどんな出来事を前にしても
「学ぼう」という心の姿勢が
画一ではないこの世の見方を与えることになる

なぜなら他人や出来事といった
外の物事の”意味”に囚われているとき
それは”教えているのが自らではなく”
他人や外の出来事にあり
すなわち”自らは学んでいない”わけだが

しかし”自らで学ぼう”としているとき
それを教えているのは”自ら”であり
外の物事の意味自体に囚われていない

つまり己は既存の世界に支配されないゆえ
現実はそれまでの法則性を解放して
まったく新しい視野が広がることになる

簡単にいえば
「私は美男や美女でないから恋人ができない」
といった心のこだわりが消える

その”こだわり”において
人生の可能性は制限されていた

あとでくわしく話すけども
それは”自分”の行動が変わるから
別の人生を選んでいけるということではない

“世界のほう”から到来する出来事が
変化してくるんだ

つまり己が幸福を選ぶのではなく
幸福に己が選ばれることになる

では何が不思議なのかといえば
そうして教えながら学んでいると同時に
学びながら教えているとき
他人や物事に反応する自分がいないわけだが

まさにそのとおり
“自分”が存在しなくなるからにある

親子が”その学び”において合一するように
美しくないことを自分が克服したのではなく
そのようにこだわる自分がいないんだ

 

人生は幸福への導きのためにある

自分がいないとき
なにがここにあるのだろう?

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