大きな光がゆっくりと変化を続けている

イメージしてみてほしい

すごく大きな真っ暗な空間に
色のついた光がぼやっと浮かんでる

ピントの合わないビデオカメラで
夜の街を撮影してるみたいに

ただ丸い光が浮かんでる

その光はじんわりと
強くなったり弱くなったり
赤から黄色になったり
黄色から白くなったり

ゆっくりと変化し続けている
宇宙的な永遠のなかで
ずっと緩やかな変化を続けてきた

いつまでも見つめてしまいそうな
そんな感じなんだけども

いまからその光のなかに入ってみないかね

変化を続ける光のなかに
一体なにがあるのか

私のつくったこの乗り物で
一緒に光のなかへ向かってみよう

さあスピードをあげて突入だ

どんどん光へ近づいていく
どんどん大きくなっていく
さあもう完全に光のなかだ

なんか見えてきたね

ああ、この世だ

みんながいる
街の人々も車も鳥たちも

海のなかの魚たちも
高原の草花も
テレビ番組も流行も

それぞれ動き続けてる

 

ほらあそこであなたが歩いている

あなたが一歩進むたびに
周りの風景は変化していく

でも変だな

いままで街の中を自分だけが
歩いているつもりでいたのに
こうしてみていると
街ごと動いているみたいだ

今度はあそこで
あなたが友達と会話してる

これも変だ

自分と相手は別々の場所から
そこに集まってきたと思っていたのに
なんだかそれは逆みたいだ

ひとつの時間だけが
ひとつの場所だけが
ただそこにあるだけにみえる

そういえばそこにいないときは
あいつはどこでなにをしていたのだろう

メールや電話や次の日の会話で
「なにしてたの?」と確認はできるけども
思えばそれも「そのとき」に
あいつが話していることにすぎない

でもじゃあ
自分の見ている世界しか
存在してないの?

独我論ってやつ?

確かに自分の「認識してるもの」しか
「認識できない」し
「知っているもの」しか「知らない」

そういう意味ではそうかもしれない

でもそれじゃ思いもしないことが
次々起こるのはどういうことなのだろう

起きた時点でそれを起きたと知るから
後手的な視点でみれば
独我論で片付けられるといえばそうだけども

でもその知るなにかは
どうして「知られるため」にやってくるのだろう?

たとえばあの日、
家族のひと言にとても腹が立って
いまだに家族と口を聞いていないけども
それはどういうことなのだろう?

独我論的であるというなら
それは運命が決定しているということじゃないか

このまま家族に腹を立てたまま人生を過ごし
やがてどこかで後悔をすることが
確定しているというのだろうか

 

──じゃああなたにもう少し近づいてみよう

あなたは嬉しくなったり
寂しくなったりしてる

こうして少し離れてみてると
感情というより「色や濃度」が
次々と移り変わっているだけにみえる

ほらあれだ
さっき遠くから見ていた
あの光の変化とそっくり連動している

ええ?
なんだって?

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