動き続ける”真実”

病気のパラドクスというのがあってね

それは「あなたは〇〇という病気です」と
医者にいわれてはじめて
“人間”は病気になるということだ

つまり病気であることを知らなければ
病気ではなかったわけだね

たしかに体は衰えたり
もしかすると
そのまま死んでしまうかもしれない

だが病気という観念がなければ
それは自然な出来事であり
むしろそれは健康なのと変わらない

たとえば年老いて
だんだん筋力が弱くなるのを
病気だとは思わないだろう?

だからもしあなたが
病気の観念を持ったことがなく
文明のない無人島で生まれたなら

どんな症状が現れてるのであれ
それは病気ではなく
自然のものだと受け入れている

動物たちの世界はそうだね

彼らの世界には人間のように
次々と発明される病名なんてないのだから

 

90歳の若者

この話は逆向けに言いかえることもできる

というのは
健康診断でなんの異常もみつからず
毎日テキパキ動いていても
実は「まだ発見されていない重大な病」を
患っているかもしれないということだ

平均寿命が80歳とされるいまだからこそ
90歳を過ぎて生きてれば
“高齢者”は自分は長生きしてると満足するが

もしかすると数十年後には
300歳が平均寿命だったと判明するかもしれない

つまり普通の現象だと思っていた
肌や筋肉の衰えは異常なことだったのであり
その事実を突きつけられたなら
90歳の”若者”は自らの短い生涯に嘆くだろう

だから己が
「本当のところはどうなのか」というのは
決して知りようがないばかりか
そんなもの端からから存在しないのであってね

それは人間が
観念の世界のみに生きているからにある

 

幻想は比較によって生まれる

というわけで
私たち人間の世界は
健康か不健康かだけでなく

幸福も不幸も成功も失敗も
固定された座標などなく
すべて相対的なものだということ

たとえば昨日あなたは不幸だと思っていたが
今日の災難に比べてみれば
昨日なんてまったく幸福だったと思えるのと同じ

そしてそれは”今日”もまた
明日や来年からすれば
どのようにも変化するということだ

私たちは健康でも病気でも
幸福でも不幸でもなく
その時々の比較による判断しかない

そしてこの取り決めが
人生を自らで確定づけてしまうことになる

 

“本当のこと”を知る

ただし取り違えてならないのは
「じゃあ病気なんて幻想なんだから
苦しいのを我慢して見ないふりをしよう」
という話ではないということだ

それは幻想を幻想だと
“思い込もう”としているにすぎない

つまり思い込んでいることを裏返すための
思い込みをするという
二重の罠にはまることになるわけで
結局なにも手放されていない

いつも話すように
釈迦が偶像崇拝を禁止した理由がここにある

じゃあどうすればいいのかといえば

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