忘れた記憶

「一者」というものがよくわからない、という相談がいくつかきているのでこちらで答えておくよ。一者という言葉そのものはプロティノス(新プラトン主義のエジプトの哲学者)の定義づけがあるけども、ここでは”私流”の説明をいれておこう。

たとえばあなたの毎日をみてみようか。

1年という立場からみれば365個の毎日があった。365回あなたは朝を迎えてきた。さらに細かくするなら1日は24時間の分割があり、もっと細かくすれば86400秒の瞬間があった。

逆に大きな尺度に目を向けてみれば、あなたが30歳なら30年、50歳なら50年間の歳月があったわけだ。

その個別の毎日や瞬間が、いまのあなたという「一者」のなかにある。

言いかえれば、中学生の頃の多感な自分がいたし、はじめて社会に出たときの大きな可能性を感じた自分もいた。

それぞれ「別の自分たち」だった。

そんな「無数の自分」が、あなたという一者を形成している。つまり無数の自分とは「あなた」をみている様々な視点であることになる。

富士山をいろんな方向から眺めているようにね。

まずここまでを何度も読み直すこと、そして「一者」という、それ自体は形を持たないなにかでありながら、しかし「日々の自分」はその形を持たない一者によって眺められていることを実感してみよう。

より大きな一者

ところで、私は働いている人たちを現地取材しているコラムなんかをよく読むのだけども、当然そこにはそれぞれの人生の光景が語られる。

郊外で農家を営む人には毎日その人のみている風景がある。夕陽に黄金色に輝く麦畑が広がり、そしてその光景ならではの思いがある。野良猫との触れ合いに仕事の手を止めて心和ます町工場の人、夜の山道を抜けて訪問診療へ向かう町医者。

それぞれの「人生の光景」があり、そしてそれぞれの「思い」があるわけだ。

「離婚して田舎の実家に出戻りして不安な毎日を過ごしていました。でも子どもを幼稚園に送った帰り道、道の先には地元の雄大な山がみえていて、その山に向かって車を走らせているときいつも安心感に包まれていました」

こんな話があったらまるでその人になった感覚になるんじゃないかな。共感というのは想像力あってのものだけども、つまり想像力というのは、個として自分の殻を超えることにあるんだ。

またSNSなんかでいろんなひとの「つぶやき」をみるだろう。コロナや芸能ニュースなんかもそうだが、そうしてみんなに共通の出来事があったとして、それぞれがそれぞれの立場で綴っている。

たとえば小学校の頃に知っていたもの(文房具やテレビ番組、よく遊んだ玩具、)や当時の流行曲など、懐かしいキーワードをTwitterで検索してみようか。

するといろんな人たちがいろんな角度からそれをみていたことがわかる。あなたはなんだか嬉しくなってくる。

それはたとえば、同じ年齢だけどもまったく違う場所で住んでいた人が、同じそれをみて、同じそれに触れて、同じそれについて考えていたことを知るからだ。

懐かしいあのこと

しかしあなたは当時それを「自分のよく知っているつもり」でみていたが、いろんな人々の視点のなかで、いろんな見え方があったのだとわかるだろう。

つまり自分の知っていたそれは、ただひとつの姿ではなかったんだ。人の数だけその姿はあり、また人というのは(あなたもそうであるように)その時々の様々な関係性のなかで成り立っているゆえ、その関係性において物事は無限に変化するのだと知る。

これは最初の章での「一者」がこれまでの毎日、これまでの瞬間の総合であるように、それぞれの毎日の「自分」もまた、己が関係する無数の要素によって成り立つ「一者」であったからだ。

だから「一者」というのはフラクタルな構造にあるが、難しい話はあとにまわそう。

さて、こうして社会や時代という「一者」のなかで、個々の私たち(無数の魂)は様々な体験をしているわけで、最初の章(人生には様々な自分たちがいる)の話と、この章(時代には様々な人生がある)を同じ目線で捉えてみようか。

「あなた」が形をもっていないと話したように「時代」もまた形を持っているものではない。

だけども「時代という視点」においてこそ(一者の視点であるからこそ)、小学生の頃の懐かしいあのことに「様々な観点があったことがわかる」んだ。これもまた重要なことなので覚えておこう。

さらに大きな一者

では時代や社会を超えて「歴史」そのものを眺めてみよう。

人はいろんなことを乗り越えて成し遂げてきた。ひとつの物語が終われば、また新しい物語がはじまる。つまり人類の歴史そのものが「一者」であり、そのなかで時代や社会が変化してきたわけだ。やはりフラクタルだね。

さてフラクタルというのはこの世を解明する手がかりのひとつなんだけども、よくいわれるのは、あるものを拡大してみれば、それと同じ形が無限に現れてくる図形のことをいうのだけども、自然界にはそれがあちこちにある。(検索してみればわかるけども、集合体恐怖症な人は注意が必要かもしれない)

またより抽象的なアナロジーなら、脳と宇宙の構造が非常に酷似していることもよくあげられる。また社会構造もマクロな視点でみたとき、自然の構造と一致したりする。これは言いかえれば、神なるものと人なるものが「共通している」ということだ。

この秘密は「脳や宇宙という別々のものがなぜ?」という観点から答えをみつけることはできない。

すべては人間がつくった物差しをみているだけであり、物差し同士を比較しても、その矛盾点をみつけることしかできないからだ(「存在」はそうした差異によってのみ輪郭が現れる)。ゆえにパラドクスがある。それをみている限り、それが本当はなんであるのかを突き止めることはできない。

だがなぜフラクタルなのかといえば、私たちは「形のない大いなるもの」をいつも前にしているからだ。

だがそれはそのままでは認識することができない。だから何らかの概念、すなわち「形」としてみるだが、むしろこうして「認識することそのもの」が一者の正体となる。

「認識すること」が一者の正体?

現代は周知のとおり、西洋文化が時代や社会の基盤にある。東洋文化や土着文化もあるよ、といったところで、そうして「西洋でないものがあると認識していること自体」がすでに西洋という概念が基盤にある。

これは以前にコメントでも話したことだね。

ところでこの「西洋」という基盤は、古代ギリシア、特にプラトンとアリストテレスが定義した哲学、その概念や体系が基礎にある。

しかしそれは彼らが宇宙の真理を解き明かしたということではなく、彼らがまとめあげた哲学によって、現代至るまでの人間の基本特性、つまり「人間のものの捉え方、考え方」が規定されてしまったということにある。

仏教もキリスト教(アレクサンドリアでのユダヤ教聖書の編纂も)も同じ時代に被っていることもあり、似たような比喩があるだけでなく、それが載せられた「意図」や「解釈の仕方」もまた、共通の事前的な前提があることがわかる。

言いかえれば、仏典を理解する人からすれば、聖書がなんのことを話しているのかがわかるわけで、それは言語は違えど「同じ枠組み」が大陸全域に敷かれていたからだ。

つまり人間が「ある何か」をみて「それがなんであるのか」という認識の枠組み、その理解の筋道が、古代ギリシアにおいてまとめられたわけだ。

アリストテレスの功罪

アリストテレスは無数の書物を書いたのだけども、のちにその弟子が、彼の教えを汲んで「ある条件」をもとに順番に並べた。それがいまやアリストテレス全集として世界に流通しているが、その最初のうちの書物群は「論理学」を扱っているものとして一般には理解されている。

論理学というのは、思考の法則・形式を明らかにする学問であり、つまりそれらを最初に配置することで、以降の書物を理解するための基礎的な道具としての意味があるわけだ。ちなみにそれらはオルガノン(道具)と呼ばれている。

ところが、ここに重大なパラドクスがある。

つまりそうして「”論理学”として理解されていること」自体が、すでにオルガノンによって影響を受けているということだからだ。

わかるかい、「思考の法則、形式というのはこうですよ」といいながら、思考の法則や形式を植え付けているんだ。

そうしてプログラムが植え付けられた私たちには、彼らの教えた通りの世界がみえる。そのプログラム通りの思考をして、つまり以降の哲学はその大前提の上に成り立っている。そもそも「哲学」という定義すらもすでにその支配下にある。

だからオルガノンは「存在論」であり、むしろ「存在を生み出す魔術」それ自体がオルガノンだといえる。

もちろん、アリストテレスの著作を読んだところで”魔法”が使えるようになるわけではない。なぜならすでにその本が目の前にあること自体、あなたがここに存在していると自覚していること自体が、すでに魔法の成就であるからだ。”その構造”を知るために、すなわち現代の私たちを規定するその根底にある”基礎”を知るために読むべきなんだ。

だから「アリストテレスはこれが善だと言っている」とそれを鵜呑みにして、それを盾に議論することほど愚かなことはなく、また、”現代では偽り”だとされている「天動説」についても、”その観点”から考察しなければならない。いつも話していることだね。

その意味で”論理学”とされているそれら一連の書物は人間の思考の法則を規定するプログラム、つまり「存在を生み出すこと」の基礎について述べているものとなる。

「意味を持つ世界」で私たちは暮らしている

つまり「空や大地がある」と私たちが認識していることさえ、先人が規定した枠組みにおいて、そのように解釈しているということだ。もちろんいま私がこうして述べていることもまた、オルガノンによってこう語る他ないわけで、これ以外の方法で語ったところで、それは「意味をなさないもの」となるだろう。

もちろん長きに渡って「アリストテレスの”解釈”」は様々と繰り返されてきたし、たとえばあなたが「いやそれはあなたの解釈でしょ、私はこう思う」と言ったところで、まさにそうして「何が真で何が偽であるか」と理論づけて議論を交わすということ自体がすでに「人間という枠組み」の上でなされているんだ。

だから”私たち”は「意味を与えられた世界」において、話し合ったり社会を形成している。意味を与えられた世界で、あなたは何かを目指し人生を費やしている。また意味を与えられた世界で商売というものがあり、そのやりとりに人々は始終しているわけだ。それらは「意味を持つもの」であるからだね。

これは言いかえれば、与えられた意味の空間こそが私たちであるということに他ならない。天国も神も猫も、そして”一者”さえも、すべて「人間が作ったもの」だ。間違えてならないのは、そうして人間が作ったものの”なか”に、あなたや私がいる(作られたものの関係性の網目として現れている=個々の魂)ということにある。その意味で「一者」というのは二重の意味が与えられていることになる。

しかし、当のプラトンもアリストテレスにしても、またイエスも釈迦も「意味をなさないもの」を「意味を持たせること」によってこの世が成り立っていることを知っていた。

つまり宗教というのは、そうして「意味を与えられた世界で、あなたたちは損得や憎しみや不安に駆られているのですよ」と教えているのであり、スピリチュアルというのは「だからこそ古い意味に支配されず新しい意味を見出していくこと」を意識変容の基盤としているわけだ。

その意味で古代ギリシアの哲学者は確信犯だったといえるが、しかし彼らもまた、エジプトやメソポタミア(シュメール)文明からその源泉を得ている。

ここにひとつの解明があって、私たちが知りうる最古の文明はシュメール文明とされているけども、それはつまり、シュメールが生み出した枠組みの規定によってしか、私たちがものを認識することができないからにあるんだ。宇宙人がみつからない話と同じだね。現代人が探そうとしている”宇宙人”とは、いったいどんなものなのだろう?

宇宙のなかに宇宙がある

さてやや遠回りになったが、まとめていこう。そして最後に”答え”を載せておくよ。

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  1. ダテキヨ より:
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