何もせずとも人生を変える
人はいつも何かに変わろうとする
つまりいまの現状ではダメなのだ
いまを変えるために何かが必要で
いまを変えるために理想や目標があり
いまを変えるためにあなたは努力をする
なぜ”いま”を変えるのかね
あなたが
「ああ、このままでいいんだ」
そういうことに気付いたとき
もはや苦もなく
世界はあなたと溶け合いはじめる
何もしなければ何も始まらない
確かにそうだろう
だが、なぜ始めるのかね
あなたの人生の中で
一体何があなたを苦しめてきていたか
それを突き止めなさい
つまりなぜいつも
いまを変えようとするのか?
いまを変えようとするから
焦りに駆られて
不安に包まれるのだ
いつも特殊な現状に
置かれているだろう
たとえばそうやって
いますぐにでも
何かを始めなければならないようなね
その現状の重さや辛さは
“あなただけ”しか理解できない
私やあなたの友人からすれば
その苦しみはあなたにしかわからない
だがそれはどういうことだろう?
あなたは必ずそういう
ユニークな状況に置かれることになっている
どこまで人生のコマを進めようが
常にそうなるようになっている
そういうシステムだ
だがそれでいいのだよ
どれだけ辛い現状にいても
必ず声に出して言いなさい
「ああ、このままでいいんだ」
そうしてあなたが
“あなたの苦しみ”を理解するとき
つまりいまと和解するとき
現実は変化し始める
新しい何かが
あなたを通じて始まるのだよ
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このままで良いのだ!
自然に任せて…。
このままで良いのだ!
幸せになるのに理由は必要ない…。
動くな…。
今の自分を信用しなさい…。
既に成るように成っているのだから…。
体のあなたは勝手に動いている…。
その勝手な動きを、
意識のあなたは自分の意識で動かしていると
思っている…。
全ては勝手に動いている…。
それを後付けで意味を付けている…。
壮大な勘違いだ…。
自分さん、こんにちは。
記事を辿っていたら昔の記事に来てしまいました。
もうすぐ今住んでいる場所から移るのですが、今の部屋での出来事を思い返していたら、それはどこにあるんだろうという気持ちになりました。
本当は、その時の居心地の良かった時間が続いてほしかったのです。それは叶わなくて悲しい気持ちもあるけれど、でもこの数年間が今のためにあったような不思議な巡り合わせに驚きました。
私の人生に現れてくれたことを感謝して、前に進んでいきます。
kumaさん
やあこんにちは。素敵なメッセージをありがとう。
>私の人生に現れてくれたことを感謝して、前に進んでいきます。
とてもよいことだ。
昨日も、1時間前も、そして1秒前も、それは”時間”が過ぎて行ったのではない。
あなたが一枚の絵のなかで動いているんだ。もちろんその絵こそが本当のあなたにある。
その絵は過去と現在と未来が同時に描かれている。
つまりいま描かれているこの絵があなたの”現世”であり、あなたの一生そのものが「もうここにある」ということだね。
たとえば前から欲しかった服や小物、本なんかにしても、それが部屋に置かれているとき、はじめからそこにあったように感じたことはないかな。
そう、もともとそれはそこにあったんだ。
人との出会いも同じ。
あなたはその人と出会うことを本当は知っていた。だから声をかけた。また誘いを受け入れた。
そのように振り返ってみれば、趣味も仕事も思想も生き方も、己はただそれを素直に受け入れるだけでよかったのだとわかる。
むしろ素直に受け取らないから、余計な遠回り(他者との衝突や自然に到来する出来事への苦悩)を体験することになる。
だがそうした衝突や苦悩は、”まさにそれ自体”が本来の道があるということを示していることになる。そうでなければ、反発したり苦しんだりしないわけだからね。
私たちは「本来ここにあるべきもの」を知ってるんだ。だけども素直になれないから、本当はいますでに書棚にあるはずの本がまだここにないんだ。
さて、一枚の絵があなたの一生だと話した。
だがこれは(いつも話していることだが)留意が必要となる。
というのは「一生」という概念もまた、この絵のなかに描かれたものであり、つまり絵に描かれた”自分”の視点にあるからだ。
あまり話をややこしくしないようにいっておけば、絵は”その全体”ごとに一挙に描き変わる。
そしてその絵に描かれた”自分”という現在(未来と過去に挟まれた現在)をあなたは覗いていることになる。つまり”一生”を経験していく。
もちろんそれもまた、すでに未来と過去が同時に描かれているのであって、「この世」という絵の上を”現在”という自分は少しずつ歩いているだろう。
だがもしあなたが、今日はじめて出会った人に対して「なんだかずっと前から知っていたような気がする」と感じるならば、それは現在ではなく「いま」をみていることになる。
この「いま」とは、未来と過去に挟まれて少しずつ絵がみえていく現在のことではなく、絵全体を一望している視野であり、つまり”時間の流れ”を超越している「永遠のいま」にある。
それはたとえば、この宇宙がその内部で自己完結を繰り返しているようなものであり、宇宙そのものは時間の経過がない。なぜなら「現在」のように外側(未来や過去)がないからだ。
たとえば空中に放り投げた石ころは空間のなかを進んでいく。過去から未来へ”現在”として進行してく。だが空間そのものは不動にある。
あなたが「永遠のいま」とひとつにあるとき、まさにその宇宙と同じく、あなたのなかに”絵”が生成し、そして自ら完結していく様子を眺めているようになる。
それこそが、魂そのものが小さな宇宙であるといわれてきた所以であり、だがそうして魂が”自らの永遠性”を知るとき、もはやそれは大きな宇宙そのものなんだ。
だから”あなた”がどんな絵を描いてそれを楽しんでいくかだけであって、たしかに人生には別れや失うことがたくさんあるけども、それは「現在」の視点にすぎない。
つまりなにも失われてなどいないんだ。
そのことに気づいたとき、永遠で無限の”愛”が絵そのものを優しく包み込んでいるようになる。人の温もりや物事の感動はその”見かけ”にあるのではない。それらを包む永遠そのものを、その見かけを”通じて”感得している様子にある。
だからあなたが”あなた自身”を感じているわけであり、だがその”あなた”とは人間のあなたではない。
つまり誰を前にしているのであれ、またどんな仕事に取り組んでいるのであれ、そうした”見かけ”の向こうに臨在するその偉大な安らぎを感じていることが大切だということだね。
そしてそれが本当の意味での感謝なのであり、同時に”己の人生を信じる”ということなんだ。