何かが頭を取り囲んでいる

はじめて親しい人が死んだのは
私が中学に入ってすぐの頃だった

祖父だったわけだが
昨晩まで普通に会話をしていた

いつものようにテレビを見ながら
食卓を挟み
くだらない冗談を飛ばしていた

心筋梗塞だったが
とくに苦しんだ様子はなく
翌朝布団のなかで安らかな顔で眠っていた

そのときは死というものが
うまく飲み込めなかった

安置された遺体を前にしながらも
祖父はあとで食事をしているだろうと
またくだらない話をしているだろうと
いつもの光景が頭に浮かんでいた

つまり目の前で横たわる”それ”は
祖父ではない何かだった

それは悲しみによる現実拒否ではなく
ただ単にそこにあるのが
「祖父ではなかった」からだ

だから奇妙な感じだったことを覚えている

もちろん誰もがそうであるように
いつもの暮らしの中に
その姿がないと知るたびに
祖父は世を去ったという事実を理解していく

だけどもそれは
「現実とはこういうもの」ということを
自分のなかの常識観に
上塗りしているような感覚だった

「そういうことにしなければならない」
というような感じだね

 

1.

たとえばトイレの便座に腰掛けるとき
当然便座の感触があるわけだが
「常識的に」考えてみれば
自分が死ねばこの感触は存在しなくなるのだろう

だがそれは1回や2回の休止ではなく
来年のいつかまた
便座に座るだろうということでもない

「二度とない」のだ

しかしそれは妙なことだ
ならばいま体験しているこの
便座の感触とは一体なんなのだろう?

それはこの体験が「何のためにあるのか?」
ということではなく
己のみている世界そのものが
幻想であることを示している

日常的な体験であるほどいい
無意識に行為していることのすべては
まさにそれまで目の前にいた人が
突然この世からいなくなったときの
「不思議な喪失感」が起こる土壌になっている

だから祖父の遺体を前にしたときの
「あるのにない」という違和感
その違和感の原因は祖父の存在にではなく
己の認識のほうにあったといえる

人は物事を結果として理解する

そこに祖父の遺体があるから
祖父は死んだのだと
「説明的に」事実を理解する

つまり「説明」の蓄積によって
直観的な違和感はどんどん上塗りされ
「あるがままにここにあるもの」が
違う何かに形作られていく

そうして「原体験」が失われると同時に
後付けの常識に真空パックされ
人は大人になっていくのだ

まだ”純粋だった頃”の私は
一緒に授業を受けている級友たちの姿や
担任の先生や黒板に響くチョークの音
そうした教室の光景はイミテーションだと
ぼんやりと勘付いていた

意識は原体験との間を
行ったり来たりしていた

だがやがて「説明の世界」に
完全に引き込まれてしまい
そのドラマのなかで葛藤を続けることになる

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