魚は水を知らずに暮らしてる

なんでもないことなのに、誰かに「ありがとう」と言われることがあるだろう。

あなたには本当になんでもないことだった。自分のやるべきことを、別に見返りを求めたわけでもなくただやっていただけだ。むしろ相手がそこにいることさえ意識されていなかったかもしれない。

だけども相手の人にとっては大きなことだった。

そんなケースだね。

 

1

ところがあなたは、そんな「ありがとう」の突然の不意打ちに身構えてしまう。

つまり「ありがとう」と言われるだけの”自分”を、あなたは自らのなかに探すわけだが、そんな自分はどこにもみつからないからだ。

するとなんだか自分は相手を騙してるみたいな、そんな後ろめたさに襲われ、こんな考えが一瞬のうちに駆け巡りだす。

「わたしはそれほどのことをしたっけ? でも相手がそう言ってるなら、きっとそうなのだろう。だからわたしはその感謝に応えられる態度を示さなきゃならない」

そうして「ありもしない自分」を演ずることが、相手への礼儀のように思えるわけだ。

だがこうして”偽りの自分“からやがて抜け出せなくなる。

 

2

“偽りの自分”というのは、たとえば「わたしはこれだけのことをやってるのに、相手はちゃんと応えてくれない」といった理不尽を”演ずる”自分や「誰もわたしをみてくれない、助けてくれない」といった孤立した悲壮感、絶望感を”演ずる”自分のことだ。

だがこの自分はそれが演技だとは思っていない。

“自分”の正直な気持ちであるのだとね。そう、たしかにそれは正直な気持ちなんだ。なぜなら、その演技そのものが自分であるからね。

それゆえ”不幸な自分”はどんどん巨大化していって、自らのその重みに耐えきれなくなる。

実際、相手にぶちまけてすっきりしたことがあるだろう。

だがそれは、相手に自分の不幸を伝えられたからではなく、演技をやめられたからなんだ。

 

3

もちろんまたすぐに”演ずる自分”は膨らみはじめるだろう。

だから「演じている自分」に気づかなければならないが、そもそもの発端はなんだといえば、理不尽な出来事が度重なってきたからではなく、実は感謝を述べられたときの”あの違和感”からだったというわけだ。

だがそれは言いかえれば、もともとあなたが相手を思いやれて優しい人だったからにある。

それゆえ「ありがとう」と言われたとき、どうしていいかわからなかった。

あなたは相手になにかをしていたつもりはなかったし、たとえ相手に関することでも、あなたは自分なりの方法や工夫に意識が向けられていて、つまり自分の仕事としてそれをやっていたからだ。

それは偽りの自分ではなかった。本当にそこにいた自分、つまり「この世」という祝祭プロジェクトに参加している作業員の一員としてせっせと働いていたにすぎない。

それは大地の植物が花を咲かせ、そこにミツバチがやってきて蜜を集めるという自分たちの仕事によって花の種を広めるように、すべての自然がそのようにして成り立っているように、アダムスミスが語ったとおり、みんなそれぞれの必要をやっているからこそ、社会もまた自然となんら変わりない高次の統一がなされているのであって、あるがままの役割を全うしていることは「演技」ではない。

むしろそれは自然なる循環の現れであり、しかしそれは一旦分離したものを再びつなぎあわせて統合されるということではなく、そもそも統合している全体の”様々な見え方のうちのひとつ”として、そのあるがままの自分や活動が、”あなたの視界”に現れていた。

 

4

だから「ありがとう」は意表をつかれたものであり、それに応えるという”仕事”は、作業員としての自分の仕事には含まれていない。

いわば、郵便配達員がファッションデザイナーの仕事を依頼されたようなものだった。ところが軽く流してその場をやり過ごしているうちに、罪悪感に似たなにかが心に残るようになる。

つまり「応えなければならない」という”自我”が生まれるわけで、すなわち、ファッションデザイナーではないのにそれを気取ろうとする自分が誕生する。

当然その仕事はあちこちでボロが出はじめる。

そりゃそうだね、己は本当は人から人へ郵便物メッセージを届けるのがこの世で任された仕事であるのに、デザイナーなんて経験もスキルも持っていないからだ。

 

5

「自分はデザイナーであらなければならない」という自負だけで、どんどん仕事を引き受けるわけだから大変なことになっていく。

もちろん業界で活躍する先人たちに憧れたりして、いつか自分もそうなろうと懸命に努力はするだろう。彼らの仕事を傍でみてれば、たくさんの人たちに賞賛されて、そして優雅に手を振ってその感謝に応えている。

そう、まさにその姿こそが、自分が”なろう”としているものであり、だから”元々の自分”じゃだめでもっと頑張らなければならない。

ところが壁にぶつかるばかりで、不幸ばかりが大きく膨らんでいく。

たしかに「ありがとう」とたまに言われることもあって、”デザイナーとしての誇り”をそこに表明するけども、かえってそれが自分を息苦しくさせてしまう。

やがてすべてが理不尽に感じてきたりして、時々その風船が破裂すればとてもすっきりする。しかしそのときの自分といえば「わたしの辛い気持ちをやっとあの人もわかってくれた」と勘違いしているわけだ。

 

6

あなたは本当にデザイナーになりたかったのだろうか。つまり「ありがとうに応える自分」なんてものになりたかったのだろうか。

そうじゃないね、どうしていいのかわからないという”違和感”からすべてははじまったんだ。

あなたが人から人へ”配達物ピュア“を届ける仕事をしていたとき、

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