大いなる意識のなかで

前回の手記について、いくつか質問をもらっているのだけども、同じところで理解できていないようなので解説をいれておくよ。

「一なるもの」から「人間世界」という流れで話していたから、今度はその逆向けに進めてみよう。

1.

まず「人間である」というのは「自己意識である」ということだ。たとえばあなたが自分について「私は〜」と言っているとき、それは自己を意識しているわけである。

また「私」を見失っていても、自転車に乗っているときなどは、ペダルの重さや流れる周囲の光景に意識は向けられる。そのときあなたは存在しないのだろうか? いいやペダルの重さや風景を「みている」様子にある。それはつまり、ペダルや風景に自己を投影しているということだ。

つまり自己意識とは「私」「体」「思考」「ペダル」「風景」など、意識が何かに同一化している「状態」のことであるといえる。

ここが大事だ。人間とは「自己意識であること」だけども、それは自己意識という何かがあるのではなく、意識が何かに同一化(憑依=乗り移り)している状態のことをいうのである。

じゃあその大もとの「意識」とはなんなのかといえば、それが「一なるもの」となる。呼びかたは様々ある。「大いなる意識」「神」「愛」「エネルギー」といった具合だね。

つまり「意識」は、何かに同一化する以前にある「ひとつ」のことであり、それは私やあなたという区分さえもない。

たとえば日曜日の公園に出かけてみれば、太陽の光に照らされて、樹木や草花は深い緑に茂り、鳥や蝶たちが舞っている。あちこちで人々が賑わい、みんなそれぞれ楽しんでいる。そして私はその光景を眺めている。

そこには一連の、巨大な一体の流れがある。様々な物事を総合した流れ、それが「一なるもの」であり、私やあなたの「本体」というわけだ。

2.

では意識はどのようにして「自己意識化」するのだろうか。つまり「ひとつ」はどのようにして、あなたの生をみせているのか。

ここで留意しておかなければならないのは、大いなる意識のなかにこの世が浮かんでいるということだ。

「意識が世界を眺めている」という表現がスピリチュアルでよくされるけども、そのまま読めば、まるで「この世」をどこか遠いところから自分を通じて意識が眺めている、という取り方になってしまいがちとなる。

だがそうではなく、意識がその自らのなかに「この世」を生み出し、つまり自らの「なかに同一化するとき」に自己意識という状態が生まれるのである。

つまり意識が自己意識となるのは、意識自体の痕跡として外在化し、対象化しうる限りでしかない。

わかりやすくいえば、素早く腕を動かせば残像ができるが、その残像が「この世(自己意識の世界)」だというわけだ。

腕を動かし続ければ残像があり続ける。

その残像を目で追い続けてごらん。そうして「そこにありもしないもの」を目で追うこと、その追い続ける行為が自己意識の誕生の連続(自己同一化の連続)というわけであり、いまあなたが体験している現実世界はその残像のなかに浮かんでいるものとなる。

3.

大いなる意識、すなわち「ひとつ」は形を持つものではなく、常に「動き」として存在している。腕の動きにたとえたけども、実際には「腕」は存在せず、ただ「動きだけ」がある。

だから神秘的な扱いをされるもの、「一なるエネルギー、大いなる意識、愛、神、etc..」などの正体とは「ただ満ちながら動き続けているもの」ということであり、姿を持たないゆえに神秘なのだ。

姿を現さないのに「確かにここにある」わけだからね。

日曜日の公園のように総合した何かが動いている。この体の心臓や胃腸も動いている。部屋の外から聴こえてくる車の走りゆく音も、鳥のさえずりも、移りゆく気温も、姿は見えないけども、確かに「在る」わけだ。

イメージとしては、丸いビーカーのなかで煙がモクモクと充満しているような感じにしておこうか。

そしてそのモクモクした動きは生まれては消えて、また生まれては消えてを繰り返している。それは同時発生的に無数にある。つまり常に残像が無数に生じている様子にある。

「残像=自己意識の」であるから、ある残像が消えるまえに、次の残像に「自己意識」が乗り継いでいく。

前回の話でメロディを聴くときを例にしたように、ある音楽を楽しんでいるとき、どうしてそれが一連の音楽であると知っているのかといえば、刻々と自己同一化を続けているからである。

4.

つまりその残像(意識の動きの痕跡)において、ずっとバトンリレーされているものがある。それが「言葉」となる。

言葉というのは人間が生み出した独自の世界のことであり、つまりいまあなたが体験しているものすべてのことだ。人間にとって認識=言葉であるから、他者や物事についてもそうであるし、心に浮かべる思考や感情もすべて「言葉を読んでいる」ということになる。

だから大いなる意識が自らの残像を自己意識として乗り継いでいくとき、それはその残像のなかに言葉をみているというわけだ。ある残像から別の残像へ移るとき、言葉と言葉が繋がれていく。

そうして「一連」のストーリーが紡がれていく。それが現実の世界というわけだね。

ところで前回した映画のたとえ話のように、ある悲しい表情のカットの前後に、失恋シーンがあるか、それともおいしそうな食べ物のシーンがあるかで、その表情の意味が変わる。

つまりいま遭遇している出来事の「意味」は、その前後の同一化によって変化するということだ。ここに「笑う角には福きたる」や「幸せな人には幸せが訪れる」ということの原理がある。

もちろんその前後に「失恋」があるのか「おいしそうな食べ物」があるのかも同一化であり、そのように捉えてみれば、常に現実変更のチャンスがあることがわかる。

5.

前回の話の結末をどうして「現代の社会」について話を持っていったのかといえば、それは私たちは「何かに自己同一化(自己意識化)」することではじめて存在することができるからだ。

よって「私」が存在するには、その対象が苦痛なものでも素敵なものでも「どちらでも構わない」のであり、その自由ゆえに、油断すればどんどん人生が辛いものへと展開していく。

同一化する対象とは「言葉」であり、それは以前の残像が刻みつけた「痕」であり、その痕が折り重なって、次の言葉が織り込まれていく。

話したように、現存する自己意識はあなただけではない。ビーカーのなかの煙は同時発生的に現れている。あなたはそのなかのひとつの残像であり、他の無数の残像は、同じ数だけ自己意識の世界があるということだ。

ただしあなたの自己意識の世界とは「あなたの自己意識」なのであって、そこには実在の他者いない。もちろん同時並行的に意識の痕跡は起きており、いまも無限に新しい言葉が生まれている。しかしあなたのみている世界とは、それ自体であなたの自己同一化(自己意識)の「内側」なのだ。

ここが最も理解が難しいハードルとなる。

忘れてはならないのは「大いなる意識」も「言葉の領域」も元はひとつであり、その一部分を自己意識化しているだけだということ。

だから「他者はいない」という表現は的確ではないといえる。もともとあなたも私も同じ実体であり、自己意識上で「どのように見えているか」にすぎないだけだからだ。

意識の次元も言葉の次元もどちらにおいても、差異によって生まれたギャップとして、自分や他人という「個」がここに現象化しているだけなのである。

6.

つまりあなたが今この瞬間の残像(自己意識の内部)で残した「跡」が、次にあなたが乗り移る意識の残像に手渡されていくが、同時に他の自己意識にもその可能性を与えていく。

たとえばいま私が書いていること(これは私の世界ではあなたの世界でいう「泳ぐ」であるかもしれない)が、あなたに新しい言葉、すなわち新しい人生の可能性を与えることになる。

各々の世界の見えかたで、それが書くであれ泳ぐであったとしても「何かを伝えようとしていること」に違いはない。つまり言葉は意識の「動き(流れ)」に対応しており、つまりそれが「時間」の正体となる(別稿で詳しくまとめる)。

そして以前話したように「思考」はゼロから生み出しているものではなく、そのときの「枠」に沿ってスルスルと流れ出てくるもの、つまり先に映画の話のように、ある表情の「意味」は、挟まれた前後のカットによって「自動的に決まるもの」となる。

だから「跡」は、自努力によって変更できるものではなく(その努力しようとしている「自分」すら、同一化された対象であるから)、大事なのは「何を選択するか」なのだ。

7.

よく対人関係で悩んでいて、どうすれば相手を攻略できるかという相談をうけるが、それは言ってみれば、相手を自分の都合の良いようにコントロールしたいということだ。

だけどもそれは不可能であり、そうではなく、その関係性そのものを見直すときに、相手のあり方が自動的に変わるのである。

これもスピリチュアルでよく言われることだが、何かを手にしようとするのではなく、その何かの方からやってくるようにしなさい、というのはそのことにある。

問題は自力で解決することはできない。そのかわり、それを問題にしないことはできる。すべては「何に同一化していくか」ということなのだ。

そんなわけであるから、いまの「言葉の世界のトレンド」である「現代の資本主義=意識の市場化」は、あっという間に「苦しいだけの自己世界」に塗り替えられてしまう。

思考さえも同一化の対象物であるゆえに、自分がそうなっていることに気づくことさえできない。ただ理由のわからない虚しさだけがあり、常に「生きづらさ」を背負っているようになる。

日本は世界有数の産業大国であり、街を歩いてもベッドのなかでスマホを眺めても、そこら中で「欲望」が溢れかえっている。だが自分で選択をするという生き方をしていなければ「こんなに豊かであるはずなのに、なぜかまったく満たされない」という状態に陥ってしまう。

8.

よく話しているように、資本主義というのは、古い時代の「主人と奴隷の関係」が単に形を変えたものでしかない。経営者と労働者は同じ会社に属しながら、まったく違う世界にいる。

労働者は労働力を売って、それ経営者が買い取ることで賃金をもらうわけだが、その売買契約(雇用契約)は時給や月給という賃金払いの手法でうまく搾取をごまかされ、「労働時間=人生の時間」をまったくの赤の他人の儲けのために費やされていることになる。

実際あなたが自分の「取り分」としてもらっているのは、1日のうちの何時間分の労働に対してだろうか。8時間働いたうちの6時間かもしれない、では残りの2時間は会社の利益のためとなる。

そりゃ雇われているのだから当然だというかもしれないが、あなたが生活をしていく以上は会社から給料をもらい続けなければならない。すると必然的に会社は2時間分のあなたの人生を吸い取り続けていくことになる。6時間で勝手に退社するわけにはいかないからだ。

ここに資本主義社会の根本原理がある。つまり人が「生きよう」するほど、雇い主は儲かるわけだ。そしてその儲けた金で会社を大きくして、さらに労働者を抱える。そうなるとさらに儲かる。だが労働者が増えるとそれだけ仕事は簡略化して、同じ労働時間で以前よりも多くの生産をすることになる。するとますます雇い主は儲かる。

もはやあなたは8時間の労働のうち、2時間だけが自分の取り分かもしれない。だが体は酷使され、その2時間の報酬をもらうために8時間働かされ続ける。やがて雇い主はより人件費のかからない方法(低賃金、サービス残業、ロボットの導入)などを求めはじめる。

もちろん企業は内側の圧縮だけではなく、外側の収益を増やそうとする。そうして目をつけたのが、人々に欲望を植えつけるという方法だ。

すなわち意識領域を「市場」にすることである。

9.

つまり労働者は生きるために余分に働かされている仕事のストレス(知らずに自己意識を侵略されていることへの重さ)を発散するために欲望を煽られて、なけなしの給料を今度は労働の外で搾取されることになる。

そうして貴重な人生を吸い取られ続けていく。

もちろん大昔のように権力支配で上から押し付ける真似はしない。そうではなく人々の方から自ら望んで従属するように仕向ければよいのだ。

恋や夢や理想のライフスタイルの実現など、人が実質的に生を楽しむためには「それなりのコストがかかる」ことにすればいい。

そうやってこの「豊かなユートピア」に放り込まれると、人々は「自分でものを考えること」をやめてしまう。考える必要がないからね。

すでにあるものを「選ぶだけ」、しかも「選ぶ基準」さえも用意されているからだ。これは自己意識(魂)そのものを「乗っ取られている」のであり、いわば骨の髄までしゃぶられているような様子にある。

なかなか怖い時代だろう。もともとの日本人の気質(自分の意見を持たない、周囲に歩調を合わせる)と、この無駄に広告と商品の溢れかえった私利私欲の暴力が絡み合うことで、「先進国のなかで異常な幸福度の低さ」をキープしているのも頷ける結果なのだ。

だから自分の人生を見直して、そして「本当の生」に向けて選択しなおす必要がある。それは知らずのうちに己の意識がコントロールされていることに気づき、そして自らの楽園を創造するということにある。

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