幸せに生きていくために(前編)

スピリチュアルや宗教では「一なるもの」という表現がされる。これは私たちが生きているこの世は「ひとつ」であり、自他という分離はないのだということをいっている。

しかし「ひとつである」とはどういうことだろう。それは「なにもない」ということ、もうすこし言えば「何事も起こっていないようにみえる」ということだ。

自他という分割がないのだから相互のやりとりがない。だからといって「巨大なひとつの体」のようなものでもない。心臓や胃があるというならば、それらも自他であるからだ。

だから「ひとつである」とは、それ自体があるのないのかわからない、それぐらいに「なにも」なく、そしてそれゆえ「何事も起こっていないようにみえる」ということになる。

じゃあ静止しているのかといえば違う。それは「起こっていないように”みえる”」というところにポイントがある。

1.

たとえば公園で親と子どもたちがシーソーで遊んでいるとしよう。子1人だけでは、親の方にシーソーが下がってしまう。だけども子どもが3人乗ればシーソーはゆらゆら上下しながらバランスが取られる。これは時間平均すると静止しているようにみえる。

この「動き続けながらバランスが取れている状態」を平衡という。つまり何事も起こっていないようにみえるわけだ。

他にもよく例にする話で、開いた手のひらにペンを垂直に立てて、それが倒れないように手を前後左右にゆらゆら動かしているのも平衡状態にある。ペンは直立しているようにみえるが、それは動きの現れである。

だから「ひとつである」というのは、このバランスが取れている「状態そのもの」のことであり、そのバランスに人間は意識上の夢を見ているといえる。

つまりバランスの分有として、シーソーや親子や手のひらのペンが「事後的に」浮かべられているのだ。それはもちろん、いまこうしたことを考えている「自分」もそうである。

2.

人は「この世」にいるわけであって、「あの世(ひとつであること)」を野球中継のように実況解説することはできない。解説していること自体がすでに分有であるからだ。ここに真理を探究する者と、実際に真理を知る者とのギャップがある。

つまり人々は「どうすれば幸せになれるのか」「どうすれば「悟り」が開くのか」というふうに、それらがまるで自分から離れた外にあるように探し求めるが、すべては最初から己のなかにあるのであって、己のなかにそれを見つけるときに、それは「己」を超えて「ひとつであること」が開かれるのである。

この世に生まれた時点から己は「バランス」の上に現れている幻であり、「それ自体」を学んでいる者である。だから「それについて」を学ぶ者ではないのだ。自分自身を探究しなければならない。

幸福にしても人間関係にしても、あらゆる人生の解決はその物事を通じて(シーソーを通じて)、より根源的なところ(なぜ両者が存在しているのか)を察しなければならないのである。

表面上に見えているものは、平衡によって現れている「仮のもの」でしかない。そんなものをいくらどうにかしようとしても、姿を変えていくらでも出現し続けてくる。

よって人は神(一なるもの)を知ることも、神がどのようなものであるのかも知ることも「できない」が、神がどのようなものでないかを知ることだけはできる。

だから見抜かなければならない。この世のすべては幻想なのだ。幻想を通じて私たちは熱さや痛みを感じ、辛さや悲しみを知る。だがそれを与える物事も、それを受け取る自分も、実在ではないのである。

3.

さて「ひとつであること」はバランスが取れている状態そのもの、つまりそれが保たれていることであるわけだが、その実体のない何かが「エネルギー」と呼ばれるものだ。つまり「一なるもの=充満したエネルギー」となる。

エネルギーは常に平衡を保つ。至るところでシーソーは釣り合っている。たとえ親が重くてそちらが沈んでいても、その親が沈んでいるという状態が平衡によって現れている。つまり満たされたエネルギープールのなかに、この世のすべての現象は現れている。

そしてすべては静止ではなく「動き続けていること」で実現されているのである。

ところで般若心経を読んだことがあるかな。262文字のそれは、あれでもないこれでもない、ということが書き連ねられている。真理が「どのようなものでないか」を伝えることで、逆説的にその「向こう側」を覗かせようとするものだ。

人間の意識上の自他の分離は実在のものではなく、すべての背後には「一なるもの」だけがあり、つまり般若心経とは「自然」そのものについて書かれていることになる。

自然といっても、私たちが目にする山や川のことではない。それらは目に見えた仮象であり、すべてを在らしめている「エネルギーの動きそのもの」が本来的な自然の意味となる。仏教でいうならそれが「空」のことだ。

4.

こうした教理は仏教に限らず古今東西あらゆる宗教の根底にある。旧約聖書からの系譜である、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はもちろん、ヒンドゥー教も、啓示によって開かれたものでは世界最古の宗教とされるゾロアスター教さえも「一なるもの」を主眼にしている。

戒律や儀礼を重んじるユダヤ教は、他の宗教と違って「瞑想する」という区分がなく、一見「この世主義」的な宗教に思われるけども、彼らは生活そのものが祈りであり、また当初は異端とされていたユダヤ神秘主義であるカバラの思想を、現在では日常的ユダヤ教と一体させて実践している。

科学の分野においてもこうした真理は現れている。もちろん科学とは「自然」を説明するものであるからだ。

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