幸せへのチケット(中編)

前編からの続きとなる。

なぜ「生きること」とその反対である「死」が大事なのかと疑問に思うかもしれない。誰もが自分の死から目を逸らし続けている。それは自分のすべてを奪うものであって、すべての努力が、すべての大切なものが、死によって破壊させられると思っているからだ。

だがそうではない。死とともに毎日を生きているからこそ、この世が何であるのかを知ることができるのだ。

死というものについて考え、その問いに向き合って生きていくことで、人生が「ひとつのパッケージであること」がみえてくるようになる。

ただ世間に流されて生きているだけでは、生は漠然としたものでしかない。その漠然さに漂っているだけでは生の真価を見逃してしまう。

たとえば「いつか報われるだろう」とか「あのひとはどうしてわからず屋なんだろう」とか、そうした期待や展望、拒絶といったものはすべて、生がとりとめのないものとして受け取られているから生ずるのである。

10.

以前私が現実というゲームに閉じ込められていた頃、多くの課題を背負っていた。ずっと己の運命を憎んでいた。本当はこんなことのために生きているんじゃない、早く解放されたい、ずっとそう願っていた。

だが同時に「じゃあ一体なにをしたいのだろう?」という疑問がいつも残されていた。

この苦難が片付いたら何がしたいのか。そんなものはなかった。ただ苦難に追われたくない平穏な日々が送りたいだけだった。だがその平穏とはなんだろうか。物事という起伏のない、ただ眠っているような世界?  

私は目先の物事の内容に囚われて完全に騙されていたのだ。私はこの全体から「与えられているすべてのもの」を誤解していた。己が参加しているゲームの役柄としてだけ見ていた。

太陽の光や春の暖かさ、冬の寒さ、林檎をかじったときの歯ごたえ、嫌味や辛みを言うひとたちの「話している内容」ではなく、そこにはただ声の響きだけがあったのだ。

11.

看病している病人のガーゼを取り替えるときの、そのかけがえのない光景。

どうしていま私はガーゼをハサミでカットして、テープでその人の患部に手当てをしているのか。この悠久たる宇宙の歴史のなかで、私だけが体験した、この場所でのこの人との瞬間がある。

かつての私は「なぜ自分ばかりが誰よりも大変なことを抱えなければならないのか」とずっと思っていた。だがある日にその意味に気がついた。

ああそうか、状況は関係がないのだと。

その後は経済的にもそして肉体的にも、個人の力では明らかに解決不可能だった問題を自然と乗り越えていった。私はなにもしていない。それらはいつの間にか去っていった。そして私の現実はそれまでと大きく変わっていった。

しかし過去の物事はどこに去っていったのだろう。

いいや、どこにも消えてなどいないのだ。それは単に見えなくなっただけなのだ。つまりあらゆるものはずっとここにあり、自分の信じているものだけが現れるのである。ここが「どこなのか」を知るからこそ、その原理を正しく理解することができる。

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