世界は一冊の書物である(後編)
私たちは自分で何かを考えているのではない。また自分なんてものも実在しない。ただ言葉が「言葉同士」で戯れ合っているだけ、ここには言葉の総体という一者だけがある。繰り返してきたように、ものを「考える」とき、それについて考えさせられる「何か」がすでにそこにあるからだ。
人間の営みとは言語の活動に他ならない。だけども人が言語を使っているのではなく、言語が人を使って活動しているのである。
だから私たちは言葉の活動のなかに存在している。そして肉体は言葉の乗り物として何度も生物としてのサイクルを繰り返している。
あなたの日常を思い出してみよう。
家族の誰かがあなたに話しかける。あなたは応答する。会話の内容によっては腹を立てたり、愉快な気持ちになったりする。だが一体何が腹を立てたり愉快になっているのだろう?
本当にそこにあるのは、家族とあなたではないのだ。言葉という無形の構造が漂っているだけであって、それが肉体を通じて論理的な秩序を形成しているのである。
つまりこの肉体という生物の次元に、巨大な言葉の網がかぶさっている状態を「人間の世界」というのだ。
しかも言葉の関わりは他者との会話だけではない。
話している最中に頭の中に浮かんでいる思いも、体が室温や痒さなどを「認識」していることも、すべてが言葉の支配下にある。
8.
家族とのやりとりのなかで「言葉は」腹を立てる。それは言葉が論理的な構造によって組み合わさるようになっているからだ。つまり野球でいうルール(スリーアウトでチェンジなど)が言葉全体の形成の下地にあり、そのルールに必ず従うようになっている。
たとえば気に触ることを言われれば、言葉は反撃する。褒められれば、言葉は照れる。口に出さないとしても心のなかで言葉はその対応する定式を返すことになる。
AがくればBを返し、CがくればDを返す。それは構造としてそうなので自動的に行われる。
もちろんそれだと「誰もが同じ返答しかしない」ことになるが、ある意味ではそうだ。たとえば街を歩けば、みんな同じ格好をして同じようなことを話している。ビジネスでもマーケティングというのは「大多数の動向」を知るためのものだ。すべてがバラバラならばリサーチの意味はない。
つまり同じ時代に存在しているということ、「同時代性」という言葉の網があることがわかる。いまの経済社会はその同時代性を利用したり、または”そうなるように人々を仕向けて”利益を得ようとする。
だけどもその網のなかでも「どのように結び目のポイントを把捉しているか」で、微妙な違いが出てくる。これが「個性」と呼ばれるものだ。
以前に星座の話をしたけども、夜空の星々を見上げて一度オリオン座をみたら次にみてもやはりオリオン座にみえてしまうように、網の結び目もまさにそんな星座のようだといえる。つまり「癖がつく」わけである。
AがくればBを返すが、それはA群という星座とB群という星座の照応であり、群のなかは非常に入り組んだものとなる。私がベネズエラをみてスライストーンの声が再生するようなものだ。
9.
そうして言葉はその構造的な秩序において「腹を立てる」わけだが、しかしその時点では単に映画の台本のように「腹を立てる筋書き」が記されているようなものでしかない。言葉たちの活動においては肉体的な興奮や悲しみ、痛みはありえない。言葉は数式をやり取りしているだけでしかない。
ところが言葉は脳の神経ネットワークを作用させる。腹を立てる「台本」を読みながら、肉体の筋肉を緊張させ、ホルモンの過剰な分泌を促す。
同様にポジティブシンキングで前向きな気持ちなったり、ボディランゲージによって自信を高めたりすること、またマイナス思考で陰鬱な表情になり体に不調をきたすことなども、言葉を肉体に投げかけることにより、脳の神経回路に影響を起こさせることにある。
どうして前向きでもないのに、どうして嬉しくも幸せでもなかったのに、そういう言葉を繰り返し呟くことで、だんだんその気になってくるのだろう?
また最初は大した相手とも思わなかったのに、どうしていまはその人のことが頭から離れないのだろう? それは恋でも憎悪でも同じだ。
性的興奮も言葉によって起こる。動物は言葉を持たないゆえに、本能的な欲求によって生殖行為を行う。そのタイミングも回数もそれぞれの種で大体は決まっている。しかし人間が年中エロティックな妄想や行為に駆られることが可能なのは、言葉によって性的興奮を高めるからだ。
実際あなたが性的な興奮をしているとき、どうしてそうなったのかを振り返ってみるといい。それは絶対に突然起きたりしない。事前に必ず言葉の問答がある。
やめられない飲酒や浪費も同じ原理にある。
10.
さてこのように言葉は「自然物質である肉体」に宿り、人類の歴史の長さだけその支配を続けてきた。
自然なる「肉体」は生まれてまもなく、すでに言葉を宿した肉体である「親」によって最初の言葉を埋め込まれる。つまり「聖なるもの」が「人間」となる。
もちろん最初のイニシエーション(言葉の授受)は、その親の中で癖づいている「星座」がベースとなる。しかし学校や社会という様々な星座に携わるなかで、己の星座もどんどん変化していく。そしてやがて固定化する。それが自我というものだ。
あなたが心寂しい気持ちを星座化したならば(寂しさが癖づいたならば)、異性を求めるようになっているかもしれない。もちろん異性という「星座」をそこにみているのであり、それがあなたの星座と合致するゆえに求めることになる。
だが繰り返すように、ひとつの巨大な網(言葉のネットワーク)のなかで言語は活動をしているだけであって、あなたと異性が実際に個別に存在しているわけではない。自他という隔たれた存在は、あくまで言葉の活動世界のなかでのバーチャルな現れでしかない。
それは常に「考えさせるもの」とそれについて「考えさせられること」の凹凸の関係であり、互いに組み合わさって合一を弾き出す。その繰り返しが、私たちの理解している人間の世界、すなわち人生となる。
いま私の目の前には書斎の風景があるが、それを見ていることも凹凸だ。軽い空腹を感じていることも凹凸である。昔聴いた懐かしい音楽を思い出していることも凹凸となる。
11.言葉が作り出す罠
持続のない表面的な幸福や、不安や焦り、憎しみや悲しみなどのネガティブな感情の一切は、言葉世界の構造によるものとなる。人は欲望と不安の2つで動かされているわけだが、つまりそれは言葉が欠乏を作り出し、そして言葉が己の作り出したそれを解決しようする働きにある。
釈迦は人間の世界は苦しみであると言ったとおり、人間の不幸とはそうした言葉の運動、すなわち「問題を作り、それを解消する」という定式の繰り返しにある。
このように、私たちは言葉の「受け手」でしかない。毎朝目を覚ますけども、それは言葉の夢のなかで目を覚ましている。無意識という星座群のなかで目を覚ましているのだ。
言葉の流れのなかに私たちが存在している以上、完全な主体に立つことはできない。幻想の外に出ることはありえないのである。
ではどうすれば人間は真に幸せになれるのだろう?
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