3の法則(後編)
4.宇宙・事実世界・想像世界
この法則はあなたに現実を見せているそのシステムについてのものとなる。「宇宙」「事実世界」「想像世界」を解説するにあたって、順に「1」「2」「3」と番号を振り、先日コメント欄に書いた私の文を引きながら、そこに詳しく加えていくことにしよう。
前回の法則は「単数・複数・全体」という空間性、つまり「量」に関するものであるが、今回の法則は「質」に関するものだ。それを頭に入れておくと理解が早いだろう。
1.宇宙(全一)
まず「1(宇宙)」だがそれは「全一なるもの」を意味する。たとえばはじめての海外旅行に行って、機内でずっと眠っていたとする。到着して起こされて、まだ寝ぼけた状態で外に出たとき、そこにはまだ何も分離されていないひとつの光景がドンと存在している。
エキゾチックな香り、いつもと違う陽光と暖かい風、、、だが、香りや光や風を識別しては「1」はすでに消え去っている。だから「外に出た瞬間」にババっとそこに広がった「まだ何も形容や分別できない一者的なもの」、それが「1」となる。よく本書で表現する「背後」や「背景」「キャンバス」となる。
アダムがはじめて目を開いたその世界、どんな区分もなく自分の存在すら意識されていない状態でみた世界、それはただそこに在るもので、新鮮で、自由で、生き生きとしているものだ。ただその様子を記録しようとか、覚えておこうとすると、その原初なるものはたちまち失われてしまう。
以前ベンヤミンのアウラの概念について話したことがあるけども、そうした芸術家の観察力で感じとられるものがこの「1」となる。決して完全とはいかないけども(それは不可能であるから)、いかにして純度の高いままでそれを作品に表現するかが彼らの仕事となる。
この「1」こそが、私たちの求める「愛」「幸せ」「自由」などと呼ばれる源泉である。つまり言葉を交わすことなくただ一緒にいるだけで満たされる恋人同士というのは、相手や自分がなんであるかはまったく重要ではなく、互いの存在を(そのかりそめの姿を)超えた領野を感じているのだ。
幸せでありたい、自由でありたい、とったことも同様にその源泉へと向かいたいという欲動によるものだ。だがそれは何かを手に入れたからとか、今関わっている面倒ごとを放り出したからとかで、手に入るものではなく、どのような状況であれ、目に見えた現実の「後ろに流れているもの」を感じ取っている様子にあることを言うのである。
大事なのは、この「1」は現実性でも法則性でもないわけであり、よってわたしたちが五官で知覚する感覚的な経験でもなければ、理性的に認識する対象でもないということである。現実に対して「深刻にならないとき」に、背後なる「それ」を垣間見ることができる。
前回の法則の中で「すべてを受け容れる」というのは、すべてを無関係に一緒くたにするのではなく「それがどんなものであれ関係があるもの」として相互に認め合うということにあると話したけども、その視座によって、つまりその各々の個性を認めることによって、その背後にある「すべては表面的なものだった」という宇宙の本性への理解を手にすることができるのである。
つまり現実逃避を続けている限りは、やはり現実に飲み込まれたままなのであり、現実に傷つき、それでも向き合うなかで学んでいく必要があるのだ。それが今回の法則の教理的なものとなる。よってこの「1」を悟るために、以下の「2」と「3」があるのである。
釈迦はこの世は苦そのものであると説いたが、その意味が明らかになるはずだ。
2.事実世界(力の分離)
さてつぎに「2(事実世界)」だが、それがその光景のなかで識別されたものだ。先の海外旅行の話でいうなら飛行機を降りたときに知覚する「陽光」「香り」「風」、そういった具象がそれとなる。また「光景がある」というのも「それを見ている自分」が識別されているわけであるから「光景」も分離されたものとなる。つまり「2」は、現実的な「事実のあり方」のことを意味する。
いま周囲を眺めると様々な物や人、そして気温や明度などがあるだろう。そうした「対象とされるすべて」がこの「2」のカテゴリーに含まれる。つまりそれら事物の存在が放っている「固有の力」もそうだということだ。
たとえば今私が向き合っている机は堅さがあり、重さがある。また表面は鈍く光を反射している。そして熱いコーヒーが注がれているカップがあるが、それも固有の質感を放っている。では机にカップを置いてみたらどうか。互いの堅さが反発しあう。カタっと音がする。その反発しあう力は、作用と反作用の法則により、同じ力量を受け合っている。
つまり個体の原理的な力の発現が、この「2」であるといえる。たとえばタンスの角で足をぶつけたときをイメージしてみれば、互いの物的な衝突があり、そして痛みがある。真冬の屋外にさらされている金属を触るととても冷たく、凍傷になるかもしれない。また柔らかなベッドもそれ固有の力である。そこに横たわると全身が包み込まれる。自力で支えていた全身の筋肉が緩められる。
飛行機を降りた時の美しい光景、香り、暖かい風もそうだ。それらは別に、私に快適なものとして合わせてくれているわけではない。ただそれはそのあるがままであり、そのままのものなのである。
このように、それらの個物に私が何を願おうとそして何を伝えようとも、それらは各々の固有の力をただ発現し続けるだけであり、いわば非情かつ暴力的であるともいえる。その発現された力側の個物と相互にぶつかり合い、反発しあう。この反発性がその事物をそこに在らしめているのだ。
「1」という何もない空間に生じた「力」、その力が反発しあっている(互いに影響を与え合っている)物理的な世界が「2」となる。
自我という言葉はもちろん知っているだろうけども、その対語にあるのが「非我」というものだ。それはあなた以外のすべてのことであり、どちらに主体があろうとも、それは非情なるがままの、力の発動の世界となる。つまりあなたがこの世がとても過酷で辛いものだと感じているのは、この「個々の力」がただ発現されているという様相のみをみているからだ。
これらは五感的な世界ともいえる。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、それらの感覚器官が様々な事物との「作用反作用」の関係を浮き彫りにする。動物や植物、鉱物はみんな、この強制的な力が暴れ狂う世界の住人となる。人間的な見解をするならば「現実性」とは野蛮なものであり、そこに理性はない。
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