軽薄な時代に温もりをみつける

たとえばバンジージャンプに挑むとき
体に巻きつけた綱を信じなければ
飛び降りることはできないだろうし

タクシーに乗るときも
その運転手や車の整備を信じなければ
乗り込むことはできない

人生の大部分は
そうして何かを信じなければならない瞬間
ばかりであってね

他人との交流とは
その相手を信じることで成り立っているわけで

不安や恐れを振り払うには
自分自身やこの世を信じることしかないのだと
みえてくる

 

賭けの連続

ところが信じるというのは
いつだって曖昧なものだろう

なぜならそれは
あなたの確信からはいつも遠いところにあるからだ

つまり体に巻きつけた綱を
いったいどうして信じることができるのか

タクシー運転手やその車を
どうやって信じればいいのだろう?

あなたが作った綱ではないし
たとえ自分が材料を集めて作った綱であっても
今度はその”自分”を信じなければならない

本当にその材料を見定めた自分は
間違いがなかったのか
その編み方で綱は問題ないのか

委ねたその何かがもし”失敗”したら
今後のすべてに影響してしまうことになる

バンジージャンプのスタッフがいい加減だったら?
タクシーの運転手が寝不足だったり
タイヤがバーストしたら?
周囲の車が追突してきたら?

そうして疑いはどこまでも遡れるわけで
つまり信じるとは結局のところ
理由や根拠もないのに

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