人生から迷いをなくす

ネットや職場など
毎日いろんな意見が飛び交うけども

あなたが何かを判断するとき
一番だめなのは
他人の意見が自分の意見になってしまうことだ

もちろん有用な情報や助言はあるだろう

だが食べ物は”消化”してこそ
自身の栄養となるように

入ってくる情報もまた
よく考えて消化させなければならない

 

“食べ物”は栄養素

消化不良という言葉は
学問や知識においてもよく使われるね

つまりちゃんと吸収しなければ
それこそ食べ物と同じで

“垂れ流し”になったり
いい迷惑を撒き散らしたり
そんな顛末となる

だから大事なのは他人の意見を
自分の意見みたいに話すのではなくて

その食べたものが血や肉となってから
そこからあなたが何をするかにあるんだ

 

あなたにとってどうなのか

同様に会社なんかで
そこにいない人のことを誰かが話してるとき

それがあなたに関心のあることならば
なおさらその誰かの意見を聞いてるだけでは
消化しない

成就しない、と言いかえてもいい
つまりその後は不完全な展開となる

なぜなら”あなたという消化器官”が
働いていないからだ

だから単純な話だね

だけども人生で大切なものを逃すとき
大体はこの消化不良が原因にあるんだよ

せっかくの美味しい食べ物も
栄養の高い価値ある食べ物も

他人の意見を鵜呑みにして
それがまずく思えたり
体に悪いものだと信じてしまって
台無しになってしまう

もちろん実際そうなのかもしれない

だが本当にどうなのかは
あなたがちゃんと咀嚼してこそ
わかるんだ

 

真似しても同じにはならない

さてこの話の最も重大な点は
そうして他人の意見を
鵜呑みにしてしまう人というのは
ただ中身がないだけでなく

自分の人生を
“自らで助けることができない”
ということに尽きるだろう

たとえば釈迦やイエスがあなたの前に立っても
彼らは自らの真理を
完全には伝えることができない

逆の立場からいえば
どれだけ彼らの話を聞いても
彼らと”同一”にはならないわけだ

まあそうだね

彼らにできるのは
あなた自らで気づくための手助け
してやれるだけなんだ

 

自分の脚で歩けない

つまり史上最高の教師たちさえそうなのだから

他人という”不完全な意見”に
人生の判断を委ねるというのは
たとえそれがどれほどに善人であっても
その善人の考えの通りではないことになる

ましてその時々でころころ変わるような
いい加減な人の意見はさらに危険だろうし
そんな人の意見でさえ
あなたのなかで曲がりくねって解釈されるわけで

結局あなたの人生といえば
誰とも違うものになっていく

ところが大変なことに
あなたは自分自身の判断をしてこなかった

他人の言葉を自分の言葉のようにしゃべり
関心のあることを誰かが話せば
「やっぱりそうなんだ」と相槌を打ってきた

しかしいまやあなたは
その真似てきた偉人でもなければ
あなたの人生の路線を決めたその誰かでもない

いわば突然に”誰もいないところ”に
放り出されたわけだが
悲惨なことに自分の脚で歩く力も失っている

当然そうだろう
これまで食べたものは何一つ消化されず
すべて垂れ流されてきたのだから

 

誤ることのない人生

だからそんな顛末にならないためにも
ネットの意見であれ会社の同僚であれ
偉人の言葉であれ

それが正しいと思えることでも
その正しさはあなたの正しさではないことを
肝に銘じておこう

あくまでそれらは
あなたが誰にも寄りかからずに生きていくための
“栄養”なんだ

それが血肉となり
やがて自分の足で歩きはじめられたら
人生はとても価値あるものになる

なぜなら大切なものを
ちゃんと見極めて失うことがなく
逆に不要なものもまた
しっかり見定められるからだ

そんなあなたに人生の判断が
間違われることはないわけだが

より正確にいえば
“どのような判断をしても”
その人生に深い納得と満足をしている
ということなんだ

つまりそこに

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