ギフト

人間関係というのは
大体は面倒ばかりを含んでいるだろう

不幸やトラブルを
それとなく持ち運んできたりもするが

それ以上に
人間に備わった「義理の本能」が
大きく影響することになる

たとえば相手が何かを紹介してくれたり
教えてくれたりしたとき

あなたは何らかの行為で
そのお礼をしなければ
何かが心に積もり続けることになる

別に契約をしたわけでもないのに
すっきりしないわけだ

それは結果として
行きたくもない付き合いに
参加することになったり

買いたくもないものに
お金を使うはめになったりする

だがどうして自らそのように
仕向けてしてしまうのか

 

ギフト

古来より”私たち”の間を行き交うものは
それが物であれ思いであれ
「霊」が宿るとされてきた

お歳暮やお祝いなんかはその典型だね

それは受け取るだけでは済まされず
「お返しをしなければならない」という
義務感が”自ず”と生じてくる

どんな悪党集団であろうとも
やはりそうした義理関係はあるわけで
その掟を守らなければ追い出されることになる

ニュージーランドの先住民であるマオリ族は
その霊を「ハウ」と呼んだ
お返しをしなければ
死の罰が与えられると恐れられてきた

またドイツ語のギフトという言葉には
本来「贈り物」と同時に「毒」の意味もあったが
それは「与える」と「与えられる」が
同一であるという言葉の起源にあるからだ

むしろ現代において
その言葉が「毒」の意味だけで
用いられているのは深い示唆があるといえる

同様に以前の手記でも話したように
ニューギニアの先住民族では
「買うと売る」や「貸すと借りる」など
反対の意味を持つ言葉がひとつしかなく
彼らにとってそれらは「同じ」となる

つまりハウにしろギフトにしろ
古代各地の生贄などの儀式にしろ
巨大なひとつのなかで流れ続けているもの
人々は感得してきたのであり

なにより「そのひとつ」から
区切られて現れてきた存在である私たちは
まさにその”己の出自”のために
人間交流(ひとつ的な交流)を
億劫に感じたりしてしまうわけなんだ

 

インアンドアウト

かといって誰とも接さずに
ずっと孤独に暮らしていたりすれば
気持ちが敏感になりすぎてしまう

たとえばささいな物事や
他人のほんのわずかな言動や表情に
傷ついたり不安になったりするだろう

それは「充足」のエネルギーというのは
“ひとつ”のなかで循環しているわけで
そこから切り離されているからなんだ

無職生活が続くほど
当初計画していた求職活動ができなくなる
それは”自分”を否定する行為であるからだ

だから全体から切り離された「個」というのは
その存在自体が
常にパラドクスをはらんでいることになる

個は「幸せ」になろうとするが
個であることを貫く限り
それは実現しないわけで

逆にいえば日頃から大多数と接している人は
レジの店員の表情がどうとか
釣り銭の渡し方がどうだといった
そのような瑣末なことには鈍感になり
直接的なことだけを受け取るようになる

しかしそれはまた
その社会生活で必要以上の贈り物エネルギー
背負うことにもなり

当然それを処理していかなければ
潜在意識にハウが溜まり続け
やがてその「毒」がまわって
お陀仏になってしまうというわけだ

 

“当たり前の世界”

というわけで人間関係はもちろん
健康にしろ商売にしろなんでもそうだが
その関係性の実体は「流れるもの」が
“あなた”を通過していることにある

だから流れるものが
入ってこなければならないし
そして入ってきたものは
流していかなければならない

間違えてならないよ
お金が入ったからといって
じゃぶじゃぶ使うことではなく

出力していたこと(仕事や親切心やetc..)が
あったからお金は入ってきたんだ
その循環を停滞させなければいい

まあ「当たり前」のことだね
働いてお金を得るなんて

だがその
あなたにとって当たり前の光景こそ
巨大なひとつが
ひたすら続けている”呼吸“の現れなんだ

つまりその永遠なる呼吸に
どのような信念ゲームを重ねているか
それがあなたが創り出しているこの現実となる

 

抱えられる荷物だけ

よってゲームに巻き込まれるのではなく
信念そのものを自制コントロールすること

すなわち人と関わる社会生活というのは
うまくバランスを取る必要があるわけだが
しかしなんのバランスだろう?

どこに均衡点を見出せばよいのか?

つまり人間関係を
極力負担のないものにするには

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