シンクロニシティを超える
シンクロニシティという言葉を
知っているかな
今から100年ほど前にカールユング
という心理学者が提唱した概念だ
よく挙げられるのは
誰かのことを考えていたら
その人から電話が鳴った、というもの
その誰かが懐かしい人であるほど
シンクロニシティの質は濃いものとなる
ユングはある到達点に辿り着いたが
その先に進むことはなかった
なぜならば
シンクロニシティという概念自体が
非シンクロニシティとの
“分離”であるからだ
最初に言っておくが
あなたの経験はすべて「シンクロニシティ」だ
だからユングの功績は大したものではない
例えば今日、外を歩いた
見慣れた風景がある
それがシンクロニシティだ
あなたと風景との共時性があるからだ
“意識のあるもの同士”がいいのなら
あなたと友達が「会話した」
それもシンクロニシティだ
重要なのはなぜ
「シンクロニシティじゃないとき」を
概念化しているのかということ
すべての定義は
その反対の面から発生する
「寒い」は暖かいがあるから起こるもの
「不幸」は幸福があるから起こるもの
つまりその反対の面がなければ
対極である「それ」は起こらない
つまりカールユングは自ら「不思議」を作り
その不思議とやらに囚われてしまったのだ
自分で作り上げた、
不思議に対する答えを探し求める
多くの哲学者と同じ
あなたが
「人生にはどういう意味があるのだろう」
そのように考え出せば
あなたは意味を求めるだろう
だが近所のおばちゃんは
今日も平凡な日常を生きている
あなたがテニスに没頭すれば
より上のレベルを目指す
だが近所のおばちゃんは
今日も平凡な日常を生きている
わかるかい?
あなたが意識を向けたものが
あなたの世界となる
あなたが懐かしい誰かを思った
すると数年ぶりに電話が鳴った
それをユングはシンクロニシティという
あなたは「なんという偶然」という
そうじゃないよ
電話が鳴ったこと
あなた思ったこと
それはワンパッケージだったのだ
ユングは
「なぜ数年ぶりにその人は電話をしてきたか」
を重視する
じゃあ私は
「なぜ懐かしい誰かを思ったのか」を問う
つまり思うことと、
電話が鳴ったことはセットなのだ
あなたがイスを見ればイスが見える
ユングは「見た先にイスがあった」とする
それは時間軸を前提としている
そうではなく
「見た」も「見られた」も
同じ境地にあるのだよ
あなたがイスを見た、と
イスがあなたに見られた、は
同時に発生しているのだ
そこにあるのは「見ること」となる
「見ること」
それが起こったのだ
ユングは科学者でもあるから
時間軸としてそれを判断する
だからシンクロニシティという見解に至る
実際はそうじゃない
それが「起こった」のだ
主客は重要じゃない
ただ「起こった」だ
起こったことに対して
主体と客体が生まれる
あなたがバラを見る
そこには「見たこと」がある
そうしてあなたとバラが発生する
あなたは「バラを見た」とする
バラは「あなたに見られた」とする
追求すれば
バラこそが「あなたを見た」となるのだ
あなたの人生が「シンクロニシティ」だ
シンクロニシティ自体が概念だから
そこに囚われぬようにしなさい
概念というルールを作っているのは
あなたなのだからね
Notes あなたの世界, それ, ワンネス, 意識, 真実
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ちょうど昨日、阿頼耶識について調べていました
思考が現実化すると言われていますが、現実は全て阿頼耶識が作っているんですね
だから全てがシンクロニシティだと
>囚われぬようにしなさい
はい、囚われないようにしたい・・・したいのですが、
私はシンクロニシティはOK(またはGO)サインかな? と受け取ってしまうところがありまして
いまちょうど、お花に関する道に進もうかどうしようか物凄く悩んでいたところだったので、
「バラ」という言葉が出てきたことで、OKサインを感じてしまったり
(先日いただいたお返事の中でも「あなたが花ならば」というお話がありました、ありがとうございます。さらに遡れば、私が初めてコメント欄に書き込みさせて頂いたときの記事も「花」という題名だったことを思い出しました)
でもそれは、昨日私が阿頼耶識のことやお花について考えてばかりいたから、今回シンクロニシティの記事が出てきて「バラ」も出てきただけなんでしょうか
この先、お花関係の道を進もうがどうしようが私の幸せに何の関係もない、
私が考えたことに対して自分さんの記事があった、
これでセットでとりあえずは終了、ということなんでしょうか
こんにちは。いつも興味深く読ませていただいてます。ブログ続けていただき、ありがとうございます。
最近は頭でっかちなのですが、どうしても理屈面も揃わないと納得しにくいのです。そんなこといいだせば不可解な現象を全て科学的に解明することになるでしょうから、それができれば私はノーベル賞もので無駄な問いかけ、疑問とは思うのは思うのですが・・・。
私がバラを見てバラと認識するのは理解できるのです。綺麗なものが在ってくれて有難いと感じる。けれども感覚器官が人と違うバラは私を認識したのでしょうか。
ずいぶん前、ある統合失調症の方の話を聴きました。その方は世界のいたるところに目をみるようです。薬を飲めば治るし常時ではないけれど、視界全てに自分を見る目が映り気持ち悪くて
たまらなかったという話です。
スピリチュアル系の話では病気ではなくよく聞きます。大天使ミカエルの翼には至るところに目がついていたとか。おそらくその方にとっては真理なのでしょうし違う次元があればそうなのかもしれません。
ですがそれを真実と認識するには私には理屈と未知がどちらも一致しないと
落ち着かないのです。以前、仏教の曼荼羅を全部物理公式で表していたところを見ました。私が馬鹿なので公式が解らないので真偽がわからないけれど。もし真理ならば(たとえ私にとってだけでも)抽象的概念だけでなく式も導きだせる気もするのです。
妄想したり意図してシンクロが起きたことはありません。というか偶然ですから意図しては無理ですよね。
たまたま見たらシンクロして「え???うそや、なんじゃこりゃ!うそうそ、無意識にどこかでインプットされてるんや、洗脳はされへんぞ~!」みたいな意固地な部分があって。自分さんは何故、それが真実であると確信が持てたのですか?
後に錯覚だったとは思わないのですか?
直感が正しいときは多いですが、それは悪い事への警告か良い事への啓示か
結果がでるまで解らないです。
私自身が直感を神秘的真理としたいばかりにのちの事象と無意識に繋げてるとも考えられる。
自分さんには感謝ばかりで師と想い見させていただいてますが自分さんも仰ってた。けして私を妄信するな。
全てを疑えと。真理が真か偽か解れません。長文失礼いたしました。
はじめまして。
陳胡痒さんの所から来ました。
何でも出来る現実から作り上げた制限を錯覚させる為の暇潰しですからね世界‥というのは正しくないですが何もかも。
懸賞で言えば自分に応募して自分が外れや当選を決めているみたいなものですね。
That’s a craacerjckk answer to an interesting question
>>りおさん
>>困ったさん
>>五月雨祭さん
何か目の前にあるもの
それを見なさい
はい
それがシンクロニシティだ
なぜそれがそこにあり
そしてあなたは見たのか
人間はすべてを確率で計算する
「金持ちになるには
それなりの才覚と運が必要だ」
こうものが確率を前提とした思考だ
つまり「いまの自分」では
可能性は薄い、そのように考える
では「可能性」とは一体何かね?
できるか、できないか
その確率性のことだ
だがあなたは目の前のものを見た
そこに確率はないだろう
可能性という概念すら超越している
その単純な事実
「目の前のものを見た」だ
よく自由意思について話が運ばれる
そう、運ばれる
あなたが目の前の物を見たとき
そこに自由意思があるのかどうか
あなたが見たのだから
あなたは自由な意思があったとする
だがあなたが見たのは
本書が「目の前のものを見なさい」と書いたからだ
つまり操られた状態
そのように捉えれば自由な意思ではなかったとなる
あなたがいまの立場、状況
そこにいるのは当然ながら
様々な選択や判断があったからだろう
だがあなたの決定基準は
あなたを取り巻いてきたものから影響されている
さあどんどん「自由意思」がなくなってきたね
さらにいえば
あなたが「自由意思」について尋ねていることすら
それを尋ねなければならないという
それまでの経緯に運ばれているに過ぎない
運ばれる
そう、運ばれる
種が落ち
芽が出て
茎が伸び
花が咲く
植物に自由意思はあるかな?
そして逆に
不自由であるかな?
どちらでもない
ただ、花としてそこに在るのだよ
あなた方は
「自分」という見解をまず捨てるべきだ
それが迷いの元凶
すべてのコメントは
個人という前提の上に書かれている
そうじゃない
花は「誰とも違う私」、
そんなことは言わない
全部の中の一部分だよ
その流れに身を任せているとき
すべてがシンクロニシティだったと悟る
つまりシンクロ二シティとは
現実に囚われた人々が
本来の流れを見たときに発する概念だということ
いつも驚きの連続なのだよ
あなたのその一瞬もね
お返事どうもありがとうございました。
先に御気分を害してしまうような文章を書いてしまうことをお許しください。
ある偶然から(本当に偶然)
京大の科学研究の映像に辿り着いたのです。もちろん私は京大なんて所には無関係です。科学に興味もたれてる方はいい勉強になるから紹介しますが京都大学「モーツァルト効果」平竹 潤 [ポケット・ゼミ] 「きてみてさわって、有機化学が死ぬほど好き」 で検索していただくと京大内の映像にリンクすると思います。
本題は科学の不正研究なのですか疑似科学との見分け方で。
偽の実験をして、その言葉をたくみにつかうと人はいかに騙されやすいか。
という映像です。
科学は検証できる。何度も何度も検証してそれが真実か確かめられる。その検証前に何か仕掛けがあれば、その検証、考察行為も全て無駄になるということを映像は教えてくれてます。
私のシンクロは思い込みや錯覚と違うことが検証実験できない。
ただ仏教と、この教授が教えてくれたことで一致したことは先入観で物を見ない。そこは一致しました。
だけれども物理現象、化学現象が変わるという結果は生まれていない。
それは決まりごとなのでしょう。
では単なる思い込みだけでないのか。
私は錯覚してるだけではないのか。
真実を観れている自信が無いのです。
>>困ったさん
まずここから始めようか
>先に御気分を害してしまうような文章を〜
誰が害するのだい?
そこをよく理解してみなさい
私の世界にあなたがいる
表現が少し悪いが
クローゼットに並べられた洋服
机の引き出しにしまってある文房具
私の「我が子」たち
私は「それら」を楽しんでいる
「それら」はあらゆる事柄を起こす
私のプレイグラウンドとなっている
私はそれを見て聞いて感じる
そして私が私という個人から世界へ
意識が溶けていくとき私はいない
私はそれらを映し出しているものであり
それは単なる鏡
私の正体は世界そのものだということだよ
あなたが「これは失礼かもしれない」
「これはきっと怒られる」など
そのように感じるのは
私の中の洋服の1枚がストライプ柄である、
ただそれだけのことだ
だがあなたは
洋服がストライプかもしれない、
または違うかもしれない、
そのように妄想の中に「私」を定義しようとする
いいかね
すべてあなたの中のお話なのだよ
私も、本書も、あなたの知り得た京大の科学研究も
あなたの知っているものすべて
それはあなたという中に生まれたもの
だからそれら自体が
ストライプ柄ならばそうだ
失礼を与えたと思えばそうだ
あなたが思ったことが
あなたの世界ではその通りとなる
あなたがスピリチュアルに疑問を持てば
いくらでも疑問を感じる情報が起こり出す
それは無限に起こる
スピリチュアルという分野を知ったときのようにね
人はその堂々巡りを繰り返し
そのすべては己が作り出していることに気が付かない
ずっと自分の影を追いつこうとし
いつまで経っても追いつけない
そうではなく
それは「自分の影なのだ」と気が付くことが大事だよ
>では単なる思い込みだけでないのか。
>私は錯覚してるだけではないのか。
>真実を観れている自信が無いのです。
あなたの見ているものすべてが「真実」だ
仮に悟りの境地が
いわゆる「離人症」であるとしよう
そうならばそうなのだ
それを単なる離人症とするのか
それとも到達した離人症とするのか
もしくは悟りについて
科学的にはそのようにしか定義できないとするのか
まったく別のものとするのか
それはあなたの見方だ
正直なところ
どれでもいい
だがあなたはこだわる
「これじゃ嫌だ」
「こうでないと、意味がない」
気が付きなさい
あなたの思いも含んだすべてが「真実」だよ
釈迦や空海がただのジャンキーだったとしたら?
それはそれで構わない
あなたの中の釈迦が中毒者なだけだ
昨日買った赤い服が
今朝袋から出してみたら青かったら?
あなたは店のミスだと考える?
自分が勘違いしていたと考える?
そう受け取らないようにしなさい
そこに青い服がある、ただそれだけだよ
自分さん、お返事ありがとうございます
お花からいろいろ教わることがあるみたいです
心が決まりました、ありがとうございます
あと、嬉しいことがあったのでご報告を
お金のことや人付き合いが苦手なことについて、
自分さんから「人と繋がることでその裏側に流れるエネルギーを感じられるようになれば、あなたはタダで世界を楽しめるようになるだろう」とアドバイスを頂いてました
それ以来、以前だったら断っていたような集まりにちょっとずつ顔を出すようにしていました
今日も食事会があったので行ってきたのですが、そしたらどういうわけか完全無料でディズニーランドに行けることが決まりました
一泊二日で新幹線での旅行です(こちらはもうすぐ新幹線が開通するエリアです)
すっごく嬉しいです、ありがとうございます!
>>りおさん
それでいい
あなたにとって1の克服は
世界が100動くと覚えておきなさい
ほんの些細なことですら
新しい世界が開く
地獄とはJust another day
つまり同じことの繰り返し
何が繰り返しているのかといえば
あなたの非創造性
つまり「止まったまま」だということだ
水は流れが止まると腐ってしまう
だから人生を常に輝かせたいのならば
いつも新しい風を吹かせなさい
「苦手」とは単なる妄想だよ
楽しんでおいで
こんにちは
ここ3年くらい、そのシンクロニシティを象徴するようなことを多く経験していました。
普段気づいたらしていた毎日の妄想の映像が毎回1月前後で起きていました。
人や会話等は限定されてなかったのですが、
その映像というか風景がまったく一緒でした。
それで、先に未来が決まっていてそのこのが浮かんでいたのか、それとも頭の中の映像が先か、などと考えていました(笑)
手記を読んでいると、
どうやらもっと深遠な感じなようで…。
解釈を越えているのか。。
修行ですね。ニンニン。
悠久さん
>先に未来が決まっていてそのこのが浮かんでいたのか、
>それとも頭の中の映像が先か、
よろしい
すべては同時にある
時間の経過は錯覚に過ぎない
いまそこで、過去を作り出せるだろう?
そしていま、していることが未来だ
このトリックを暴きなさい
シンクロニシティを経験するということは
あなたが現実に対する違和感を覚えているからだ
いいかい
すべてがシンクロニシティだ
偶然見つけるものじゃない
ずっとそうなのだよ
生活がシンプルになったからか
気づきやすくなりました。毎日のようにおかしなことは起こりますね。
ゴミを出し忘れたら他の人も出し忘れ、
雨降った日は体調わるいかも、と思ったら、そのような記事を見かけ、
読みたい漫画を思い浮かべると、友達がその話をしていたり、
友達が何をしているかわかっちゃったり。
人間の感情とか思考って天候にも影響してそうですね。
多くの人がピリピリするような日は毎年荒れてたり。
それどころか機械にも影響してるみたいですね、
科学的にも見つかっているとかなんとか。
“運が良い”って思い始めてからは、期待値よりも結果が良くてびっくりしました。
あまりに運任せになりすぎて、実力がないんだと自信がなくなったりしましたが…。
よくある自由意思があるかないかの問いについてですが、ふと感じました
自由意思があるか?という問いが、思考や行動する自分とそれに対する世界という前提に乗っかっているということです
自由であるとする自分とそれを抑圧する側としての世界といった前提。
もし自由意思があるか?という問いを問うているのがそもそもそのような2者の前提がなく、1者がただ問うているなら
つまりは分離が存在せず、いうなれば世界という私、私という世界がその問いを問うている
とすればその問いを問えているということそれ自体が自由なのではないかということです
そしてまた前提がひっくり返り、自由を制限する側と自由を謳歌する側が消失すれば、そもそも自由という概念も消失する
最終的に私達は素晴らしい所にいるのではないか?ということです
そしてこう問えていることもその素晴らしさの一部なのかなとふと感じました
私の周りが何か良いもので満たされている感じがしました
FireBallさん
よいコメントをありがとう。よく気づけている。
>自由意思があるか?という問いが、思考や行動する自分とそれに対する世界という前提に乗っかっているということです
その通り、あなたはあなたのなかで生きている。
自他の対立(分離)について先ほどshiyさんのところで話しているのでそちらを参照してもらうとして、「あなたはあなたのなかで生きている」、つまり”外側のあなた”にこそ自由意志があるんだ。
日頃私たちは「小さな自分」を生きている。その自分がいくら自由に考え、自由に選択したところで、それは考えることを強制され、選択することを強制されているにすぎない。
断崖絶壁に立たされて「背中を押されるか、それとも自分で飛び降りるか」という二者択一が、小さな自分にとって自由な選択だと思い込んでいる。
だがその断崖絶壁にまで「自分」を導いたのは、いったいどのような力なのだろう?
まさにその導いた力こそが「本当のあなた」なんだ。
「じゃあいま私が不幸なのは、自らそのように傷つくためなのか」となるだろうけども、ここで大事なのは、そのように考えているのが「小さな自分」だということにある。
「外側から包み込んでいる大きなあなた」というのは一枚の大きな絵であり、これもよく表現するように、そこには未来と過去が同時に描かれている。
小さな自分はその絵のなかを旅しているわけで、しかしその小さな視野からは絵の全貌を一挙に眺めることはできず、順番にみていくしかない。それゆえに「時間」という幻想がうまれる。
また本当は美しい絵であるにもかかわらず、その一部だけしか捉えられず、絵全体とは無関係な妄想で解釈をしはじめる。大体はその部分をグロテスクに感じている様子にあり、それに怯えて留まってしまい、同じ箇所をさまよい続けてしまうわけだ。
こうして人生を「信じること」ができない。
留まり続ける小さな自分を「大きな私」は様々な手段で導こうとするが、その到来するすべてが恐ろしいものにみえる。つまり日々を安らぐことができないでいる。
だが小さな自分が「この世はなぜあるのか」と問い、そして空も大地も街ゆく人々も、すべて己自身がみせているのだとふと気づいたとき、ようやく「人生との関わり方」が変わりはじめる。
たとえば悲しんだり腹を立てたりすることがあっても、すぐにそれは自らがみせているものだと気がつくようになる。そうした気づきの連続において、やがてあらゆる一切が事前に描かれていたものの追体験であることがわかってくるようになる。つまりすべてがシンクロニシティなんだとわかる。
すべてがシンクロニシティだとわかるということは「この世」が絶対的に守られていることを知ったということだ。
>最終的に私達は素晴らしい所にいるのではないか?ということです
そう、”私たち”は自ら生み出している世界に気付いていないからこそ苦しんでいるだけなんだ。
ただし間違えてならないのは、この世の根底にあるのは「希望」であり、その希望が「その時々の見え方をしてくる」ということにある。
だから「大きな一枚の絵」というのは、固定した何かが描かれているのではなく「希望」がフレキシブルに変化し続けるようなものとしてある。
つまり姿形として現れてくるのは「その時々の信念」であり、だから大きな一枚の絵とは「電流」のようなものとして捉えるといい。満たされた電気の流れに「豆電球」を光らせるか「モーター」を回転させているかということだね。
その意味で知識を蓄えていくことや、他人に対して同じ感情を選択しないこと、訪れたことのない場所にいってみることなどは、「電流」をより豊かに表現できる「素材」となるんだ。またそうして新たに備わった素材によって、さらに新しい信念が呼び覚まされることにもなる。
豆電球やモーターというのは、そもそも人類の記憶から引き出されたものであり、私たちは個別の世界を生きているようにみえて、実際その個別性とは、単に素材の関係性がどうあるかにすぎない。素材そのものはすべて人類からの借り物となる。
実際そうだね、いまあなたが暮らしている家も部屋の壁紙も、学んできた知識も、すべては人類の記憶から読み込まれたものにある。それらがどう組み合わされているかがあなたの人生であり、またその組み合わせ方によって素材の見え方や意味も変わる。野球をする人からすればその木の棒はバットだが、洗濯をする主婦からすれば布団叩きとなる。
だから己の世界を生成している「関係性」を解き放ったそこには「巨大な一者(=人類の記憶)」の膨大な情報が流れているんだ。
つまり自由意志(=現実変容)とは、その一者である「無星座の(あるがままの)星空」から星座を結び直すことにある。(厳密にいえば素材もまた小さな星座としてあるが長くなるので割愛する)
そして星座が結ばれるときの動機とは、それは必ず「希望があるから」であり、言いかえれば、希望こそが「創造」なんだ。
よって私たちはいかなるときも希望を忘れないこと(喜びを思い出していること)が大事であり、希望によって新しい道が開かれることになる。
間違えてならないのは、希望とは「求める欲望」のことではなく、困難に直面しても「大丈夫」と信じられる寛容な意識にあること、単なる楽観視ではなく「この世がそもそもなんであるのか」を気付いていることにある。
つまり小さな自分の意志ではなく、大きな私を信頼することにあるんだ。
そうして焦らず不安がらずマイペースに歩んでいるとき、大きなあなたが希望のままに新しい世界へと導いてくれるようになる。
これが”自由意志”の本当のところであり、すなわち、あなたが話してくれている「何か良いもので満たされている感じ」のことだね。
自分さん
お返事ありがとうございます。コメント時感じていた
「私は私の中にいるんじゃないかな?」
というおぼろげな思いが少しずつ当たり前な事として変わって行っているような気がしています。
わたしはわたしの中で生きている
そうなんだろうなぁとふと思った時とても心地よい安堵感がありました。それと同時に身体の内側からぼわーっとなんだかいい感じのものがにじみ出ているような感覚を味わいました。
ほんとうに暖かいというか優しいというか、とても心地よい感覚が胸のあたりに広がっていました。
ですがその後すぐに、
「いくら小さな自分を包んでいるものが大きな自分だとしても
その大きな自分が小さな自分に意地悪することもできるんじゃないの?」
という思考が浮かびました。
たしかにそうかもしれない、としばらくは考え込んでしまいました。その時安堵感は失われていました。
大きな自分の存在を微かに感じかけているこんな状況でも、小さな自分は疑いを向ける、そういった問いに思考を巡らせているのか、とふと考えた瞬間、
そんなことさえも可能にしている大きな自分のその寛大さと自由さに驚きとともに、少し笑ってしまいました。
仰ってくださったシンクロニシティの件ですが、最近ちょくちょく起こるのでスマホのメモに残しています。
>すべてがシンクロニシティだとわかるということは「この世」が絶対的に守られていることを知ったということだ。
このような気づきはまだ訪れておりませんが、気持ち的にはやがてそう知るんだろうなぁと感じております。特に根拠はないのですが笑
自分さんがなぜ「自分さん」というお名前なのか?
その事を考えると、「あぁ、そうか」という気持ちが少しずつ確かなものに変わってゆく気がしています
自分さん、ありがとうございます