恐怖に直面する生き方で存在のパワーを得る
かつて自然災害や紛争、疫病など
死を連想させる局面に居合わせたとき
人類は恐怖を感じてきた
恐怖とは実にシンプルな感情だった
だが災害や疫病などを
未然に防ぐことが可能となった現代
妙な動きが起こりだした
確かに天変地異への対策は徹底され
食料は備蓄され
疫病にはワクチンが準備されている
つまり、事が起こるまえに
すべてが解決しているのだ
シナリオでいけば
もう恐れることはないわけだから
人類から恐怖は消え去ったと思われた
だが今度は”未然に防ぐこと”が
自己防衛と成り代わってしまう
「失敗したらどうしよう?」
「嫌われたらどうしよう?」
社会の中での立ち位置を重視するあまり
それらの”事が起こる前に”対処しようとする
それゆえに生まれながらに持っていた
個性や自主性が完全に失われてしまった
つまり起きてもいない出来事に対して
恐怖を作り出すようになってしまったのだ
シンプルな恐怖心については
人も動物も防衛本能として備えている
その出来事に直面したとき
普段では想像も付かないパワーを発揮する
それは決してネガティブなものじゃない
確かに光景は悲惨なものかもしれないが
胸躍らせるようなワクワクする気持ちと
恐怖に直面したときの
自らを動かす絶大なパワーは同じものだ
マインドの鎖を捨てて
大胆な行動に踏み切ることができる
だが現代の「ありもしない恐怖」は
なんだろう?
もちろん動物たちは理解できない
彼らは”生きること”が前提にある
現代人は”生き延びること”が前提となっている
動物はリアルタイムに生を謳歌するが
人は未来志向だ
いまここにいない
太古の人々からすれば
大笑いされることだろう
恐怖に直面する生き方でパワーを得る
「目立った存在になってはいけない」
「人と違う道を進んではいけない」
それらは一体なんの戒めなのだろうか?
どんな大物であれ成功者であれ
誰もが最初はその罠に陥っていた
だがあらゆる”ネガティブ”を超え
彼らは自分で作り出していた地獄を
飛び出したのだ
だから現代における成功者とは
本来の人間の姿であるともいえる
自主性と独自性を信頼し
自分で人生の舵を切り
時に大胆であり
エネルギーに満ちあふれ
存在性のパワーを味方にしている
周囲など気にせず
既存のやり方などに囚われず
己の方法論で生きていくことが
人生を開く鍵となるのだ
民族が狩猟から農耕に
ライフスタイルを変えたとき
その精神は明らかに未来志向となった
狩りでは運と実力に左右されてきたが
農耕ではそうした問題点が払拭され
「時期を待てばちゃんと収穫される」
となった
その思想が他の分野にも広がっていくが
未来への布石活動が広がるにつれて
人はありもしない恐れ、不安、を伴い
自信喪失、倦怠感、などから
さらに大きな不安や焦りを生み出すという
悪循環に陥いるようになっていく
だが当時は現代ほど進歩していないから
シンプルな恐怖心を味わい
それを原動力にすることができていたのだ
世界史などを読んでいると
爆発的な行動力を持った人々が多く登場する
彼らを動かしていた根源的なパワーは
希望と恐怖によるものだ
先に書いたとおりどちらも同じ性質のもの
いまの我々に足りないものは
恐怖に直面することなのだ
ありもしない”不安”とかいうネガティブに
その純粋なる恐怖がオブラートされている
恐怖とは純粋なパワーのひとつ
その中では屈することはない
そもそも屈せられるものでもない
それはありのままの自分に戻ることができ
未来やら社会やらという余計なホコリを
振り払う引き金となってくれる
あなたの大事な力のひとつだよ
恐怖を愛しなさい
あらゆる不幸は吹き飛び
そして驚きのパワーに包まれることを
実感するだろう
Notes 世界を変える, 充実感, 唯我独尊, 生き方, 神秘, 自由, 苦悩
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自分は支配者の奴隷になるため、他人の幸せに貢献するため、自分を犠牲にするために生まれてきたのか?
自分は支配者の思考支配者の邪魔をかいくぐり自分のために生きる事ができるんだろうか?
いや、わかっている・・・自分は以前逆の立場だった・・人を支配し利用していた・・
だからカルマが作用して支配される立場になったということだろう
それはわかる がしかしなんともむなしい世界ではないか
たかたかしさん、もしかしたら私はあなたを知る人間かもしれない。
だとしたらこのような場所で出くわすとは奇遇ですね。
まさに世界とは私です。
すべて私が作り上げた幻想。
お互い常に内面を見ていきましょう。
>たかたかしさん
私も同じ現実を生きていた
あなたの文面から察するに
当時の私と同じ
何かを待っているのだろう
だがはっきり言っておくが
それは訪れない
私はすべてを失ってすら
それに気が付かなかった
いいかい
これだけ覚えておきなさい
いくらでも苦難はやってくる
面倒な人や物事はいつもそこにある
「いつもそこにある」のだ
あなたが選ぶだけだったのだよ
この意味をよく理解しなさい
選ぶというのは手段のことではない
あなたのハートのことだ
逆にいえば
自分の気持ちに正直に選んでいけば
あなた自身が苦悩に陥る出来事は
起こらなくなる
ん・・?K?小林?
内面・・内面ね・・。
心の声より世間体を優先してしまった僕に今更心の声を聴けるのか?
自分より他人の都合を優先してしまった僕に今更自分を大事にできるのか?
自分を否定しがちな自分は自分より他人の言葉に耳を傾ける
苦痛にまみれてもなおだ
ひどい無力感だ・・・本来の自分は無力さなど感じないものだろうか?
他人が創りだした神にすがり
他人が創りだした罪と罰を自分に適用し自分に罪を着せ自分を罰し
事がうまくいかないと他人が創りだした神を恨む救いようのない自分に何ができるというのか?
他人にすがり他人に許しを請い他人に好かれようとする自分に生きる道はあるのか?
何にすがればいい?いったい何を頼ればいいというのか?
心の声と支配者の思考の区別もつかなくなった今の私に・・
たかたかしさん
ところで、
不幸はどこに染まっているのかね?
あなた?
それとも、あなたの中の何かかな?
そのように苦悩させているものは
あなたの中の何かな?
それを見つけなさい
そして取り出しなさい
自分さんこんにちは
全て生きる為に行う様にすれば今回の記事で推奨されている生き方、剃刀の上を歩く様な生き方になりますね。全てサバイバルだから幸も不幸もなくなります。今に在るです。まだ実践できていませんが。
自分を生きるという風に意識の方向を変えました。内側を観ていたら満たされる影像が映し出され始めました。
でも内側を観る、内側を意識していても不快感は感じます。
内側を観て常に至福が感じられないのはやはり意識は外に向いてしまっているということでしょうか?それとも内側を観ても不快感が生じることはあるのでしょうか?
不快感を感じまくるというメソッドがあり多少楽にはなりますが、内側を観るということとは違いますよね?
ただ私には豊かさのある映像は映るのに、愛のある映像は映りません。
私の中に愛がないから愛のある映像が映らないのかと思いました。でもこの観念に引き込まれたらまた無意識(ネガティブ)に引き込まれそうです。意識的に在る様に注意します。拝
内側を意識する様にしたところバイタリティが凄く上がりました。
心は憂鬱なのに体は目茶苦茶元気です。
この元気は恐怖から来ているのかも知れませんね。
心に憂いがあり、体の調子は良くないのにとにかく元気です。拝
名前のない男さん
そう、現実という枠に捉えられると
絶対的な否定の中で生きることになる
万物は人間ひとりの視界には大きすぎる
人々は次々と宇宙の循環の飲み込まれていき
いずれ自分もそうなるという恐れだけとなる
だがそうじゃない
道は残されている
生きていくことに貪欲になることだ
「生きてるってどんな感じ?」
そう自問自答を続けなさい
野性の本能を研ぎ澄ましなさい
あなたは大地を駆け巡る一匹の獣になれる
お久しぶりです
あれからお陰様で日々の出来事も心も落ち着いたので、数年ぶりに近代の狩猟ナンパをしにいってきます(笑)
ナンパって、もし相手にされなかったらプライドが傷つく!とかマインド遊びの部分もありますが、なかなか原始的な恐怖や希望や本能に基づいたワイルドな遊びだと思います(もちろん礼儀とマナーは守るけど)
終電だのネットや夜のお店や知人等の保険は全部捨てて、黄金の流れに体一つで突っ込んできます
今回は瞑想しながら丸一日過ごすテーマもこなす予定なので何が起こるかワクワクします(笑)
いつも何かを揺り動かす記事ありがとうございます
一匹の一雄として頑張ってきます(笑)
あの時の覚醒者さん
よろしい
そのように常に扉を開く生き方が
人生をスパークさせる
だが対象に意識を持って行かれてはならない
>一匹の一雄として頑張ってきます(笑)
結果報告を待っているよ
ナンパの報告遅れてすみません、いまいち気が向かないとウダウダしてたら溶連菌に感染して倒れてました(笑)
長文になる恐れがあるので分けて連投します
まず繁華街に向かう為乗り込んだ高速バスが強烈なスルメの臭いに満たされてました
恐らく乗客の誰かが食べたのでしょう、匂いと乗り物に敏感な僕は出発五分でしたたかに酔い、家を出る前に食べたイカフライを思い出しながら真っ青な顔で窓に映る景色を眺めてました
夕方バスをやっと降り、乗り物酔いと強烈な空腹に目眩を覚えた僕は缶コーヒーを2本一気飲みしました
すると足元がさらにフラフラとして落ち着かない気分になり近くの綺麗な公園のベンチに横たわりました
残暑に舞う噴水を眺めながら、昨日読んだ涅槃の書の血糖値の乱高下による低血糖の記事と、ネットコラムにあった軽い急性カフェイン中毒についての記事を思い出してました
続く
あの時の覚醒者さん
例の報告だね
ありがとう
あなたのその一日は
あらゆる要素が絡み合った「編み目」にいた
それを自らの体験から理解すると良いだろう
あともうひとつ
続編が気になるところだが
私に支配されてはいけないよ
自分さんはよく「流れ」という表現を使われますが、起こってもいない出来事に対して恐怖を作り出し、それに縛られて生きていることもまた大きな視点から見れば「流れ」なのでしょうか?
自分さんの手記を読み、今の生き方に疑問を抱き、自分の内側に意識を灯すよう心掛けることも「流れ」の中なのでしょうか?
ワモノさん
>起こってもいない出来事に対して恐怖を作り出し
それは流れではない
逆だ
流れをせき止めている
どこかの手記でも書いたが
マインドができることとは
流れをせき止めることしかないのだ
つまりあなたの苦悩や四苦八苦は
流れへの抵抗からそれが生まれている
そこに気がつけば
いかに自分が何もせずに流れに乗っていくか
そういうことを意識するようになる
数十億規模の経営者でも
園内を見渡すことに気付いた園児でも
それは同じことだ
>自分の内側に意識を灯すよう心掛けることも
「流れ」の中なのでしょうか?
内側に意識を灯すことは
マインドの静止を意味する
つまり流れをせき止めることを
放棄するということだよ
人生最大の発見は、何が起きてもどおってこと無い。
鯤さん
その通りだ
だが自分に言い聞かせる状態から
さらに超越することだ
するとその言葉すらも出なくなる
1秒前と、いまの違いはない
どちらも”体験後”だよ
自分さん、返信ありがとうございました
納得しました
ワモノさん
こちらこそありがとう
皆が関わっている「そのこと」を
忘れさせるために私は存在している
それだけが真実だからだ
だが誰もが現実に囚われ過ぎていて
あまり理解されないがね
お世話になっております。
今まではエゴを倒そうという発想だったのですが
最近はエゴを受け入れようという感じになってきました。
まさに「恐怖を愛す」です。
私は木材関係の職業なのですが、木と同じように数日では変化は見えないが
数か月、数年とたつにつれて伸びているのが分かるのかなと
仕事をしながら思いました。
ONEPOINTさん
人生というのは夢の中のことだ
だからエゴに支配されるも
光明を得るもすべて夢の出来事となる
夢の中で苦悩するか
夢の中で満ち足りるか
ただそれだけのことなのだよ
>私は木材関係の職業なのですが、
素晴らしい職業に就いているね
木材に触れるときに
瞑想を思い出すことができるからだ
どこかで木が生まれ、
自然の恵みの中で育ち
そしてそこにやってきて
加工されてどこかへ運ばれ役に立ち
いずれ地球に還っていく
大地の静かな呼吸を感じなさい
職業とは自分自身を表している
己を感じ取りなさい
死を思えば、大抵の心配事がどうでもよいものになりますが、恐怖に直面することで得られるポジティブエネルギーなのでしょうね。
このサイトの写真は自分さんが撮った写真なんですよね。
見ていて癒されると言うか優しい感じがします。
鯤さん
死を思うのではないよ
あなたが死そのものだ
つまり時間の経過はなく
あなたが時間なのだよ
これは永遠、つまり「いま」を意味する
あなたが永遠なる静止におり
流れていく物事は夢の記憶なのだ
その記憶の中で
ポジティブやネガティブを観ている
無論、夢の中のあなたが
そのように捉えている
だが気が付くべきなのは
その”あなた”をも観ている、ということだ
これまでそうだったし
これからもそうだ
「これから」「これまで」は
過ぎていく側であり
観ているあなたはずっとそこにいる
>写真は自分さんが撮った写真なんですよね。
そう、言葉では表現できないものを
伝えればと思っている
写真を見るのではなく
写真があなたを観ているのだよ
自分さんお世話になってます。
記事と関係ないかもしれませんが質問致します。
僕は何かに対して勝手に期待して実現しなくてガッカリすることが多いです。自打球を食らっています。
今に対して不満や不足があるから未来や願望の達成に期待しているのだと思います。負のループです。
期待をなくす方法があれば教えて頂きたいです。
内側を意識する以外に方法はありませんか?
宜しくお願い致します。拝
連投失礼します。
期待が実現しなくて以前なら暫く凹んでいました。
今は「あっ!また悪魔がネガティブに染まらせようとしているな。」と気付きすぐ内側に意識を戻しています。
悪魔は何度も仕掛けて来て、引き込まれそうになりますがその都度意識を内側に戻している状態です。
だから最悪の状況はかろうじて回避出来ています。やはり思い込みの世界なのだと思います。
期待が完全になくなれば負のループからぬけれそうです。
以前の教え通り直ぐに意識的になれる癖は身に付けました。
悪魔に引き込まれそうになったら、あるポーズを取って直ぐに意識を内側へ向ける様にしています。
以上宜しくお願い致します。拝
名前のない男さん
期待とは失望を意味する
それらは同じものだ
>内側を意識する以外に方法はありませんか?
それはありえない
なぜならば、期待や希望、野心などの未来志向とは
意識が外側に向いているから起こる現象だからだ
何かがあるときに意識を内側に向けるのではない
常に向けるのだ
つまりあなたの内側に常に光を灯すのだよ
あなたは「自分だけがほっこりしても仕方ない」
そう考えるかもしれない
それがマインドの罠だ
いいかい
あなたの見聞のすべて、
つまい世界で起こる美男美女、好奇心、興味、欲求
そうしたものはすべて「あなたの中」で起きている
それを忘れてはならない
あなたがそこにいなければ
街のネオンは輝かない
自分さんご返答ありがとうございます。
希望が絶望の意味が解りました。常に「内側、内側」ですね。
期待とは外に意識が向いてしまっている即ち「今」から外れている状態ですね。注意します。「今」に在る時は何の不足もなく、体の内側が最も安全な場所だと感覚的に解ります。
意識を内側へ向けても安心が得られない時があります。その時は内側へ向けられていないのでしょうか?
意識を内側へとは、五感により自分の内側だけを観るのか?自分だと思っている自分がいる光景全体を眺めるのか?が今一解りません。
自分と距離が取れている感覚や安心感があれば何でもOKですか?
意識を自分が生きるではなく、自分を生きるに変えると距離感は保てています。
以前はお金を稼ぐ為に生きていましたが、生きる為に~するにしました。徐々に今までお金を稼ぐ為に控えていたことを稼ぎが減ってもやっていこうと思い始めました。
必要なものは与えられる気がします。
現に与えられています。拝
追伸です。
某覚者の教え「私は誰か?」と自分に対して問う。若しくは常に心の中で「私、私…」と唱えることの意味が解りませんでした。
これは「今」から離れない為、内側を意識する為のものなのだったのですね。
私は誰か?と問われても「誰でもありません。」としか答え様がないし、逆に誰でもあるとも言えます。
やはり物事に意味はありませんでした。拝
名前のない男さん
新しい手記を書いた
あなたに何らかのヒントを与えるか
またはひとつの疑問を生み出すだろう
その思いを超えなさい
あなたの自問自答はエゴが起点となっている
「自分=エゴ」とするから混乱するのだよ
それは知識のものだ
エゴを捨てるということは
自分を捨てるということではない
自分自身で生きるときに
エゴは自然と消滅するものなのだよ
だから求め得てはならない
気がついたらすべてそうなっている
ご返答ありがとうございます。
全てはただ起こっているだけなのに因果を求めるから幾らでも疑問が発生する。私が発生させてます。
「私」が理屈っぽくなっていることに気付きました。
理屈を落とします。
ありがとうございます。拝
子供の頃、無我夢中で遊んだ時の感覚です。
自分自身を生きれば幸も不幸もない。
自分自身に還り、自分自身を生きる。拝
名前のない男さん
あなたは勤勉ゆえに
知識に頼る傾向があるかもしれない
つまり、とある感情の起伏が起こるとき
得た学びがすぐに忘れ去られてしまう
「知識」とはそういう性質を持っている
肝心なときに、役に立たない
だから意識にすり込む必要がある
毎朝10分早起きして
瞑想を根付かせなさい
別の方のコメントにも書いたが
意識の向きは慣性がある
しばらく内側に向けていれば
それが癖付くようになる
そのように習慣にしなさい
あなたは体で覚える方が良い
了解しました。
ありがとうございます。拝
ほらね、これが上がってくるでしょうという溜め息まじり気分も。
先ほどまでの不条理に沸き上がった怒りはどこへやらで。
もう怖いのはご馳走さまでございます気分の方が強いです。
むっちゃ悩む。
自分さん
この手記を読んでいて開放感を感じました。
どうすれば、自分を捨てられるのだろう、
これが僕の人生のテーマなのかもしれません。
だからいつもどうすればと考えていました。
それから少し過去の事を思い、思えば自分が恐れる
選択か、自分を保持するかの選択で、常に自分を保持
する方を選んで来ました。
それは自分がどうなるか分からないからだったのだと
思います。
でもあの時現状を省みる事をせず、飛び込んでいたら
何が起きていたのだろう?
と思うのです。
僕はいつも自分がやり切る事をせず、隠し通して来ました。理由は失敗が怖かったからです。
だから周りが怖いのです。
自分の価値観の外に出た事が一度もないのです。
という感じで今はなんでも出来そうな気がしています。
bukuru10さん
良いコメントだ。少し長いがアドバイスを入れておくよ。
あなたも気づいているように、自分を捨てるというのは他者を克服するということにある。つまりあなたが「自分の価値観」と思っているのは、自分の持つ「他者に対する価値観」のことだ。
ゆえにどんなケースであれ、常に「自分」は相対的に存在しているということを忘れてはならない。
つまり他者を気にしながら自分をどうにかすることはできないということだ。このパラドックスは「自分を克服して他者と調和しよう」という話に陥り、それは堂々巡りとなる。
そうではなく「他者を克服するから自分そのものが消滅する」のだ。それが調和(ゼロ)となる。
では他者をどうすればいいのだろう。
そのためにはまず、自分という存在は他者あってのものだということを徹底的に理解しなければならない。あなたが社交的でみんなに取り囲まれていた頃、そのことは肌で感じていたはずだ。もう忘れてしまったかな。エゴはその事実を覆い隠してしまう。
「存在」は常に何かの反射でしか成立しない。それは自分であっても他者も物も出来事もそうだ。
たとえば電車に乗って周囲の視線が気になるとき、あなたは存在する。だが気にならないとき、あなたは存在しない。物事が順調に捗っているとき、あなたは存在しない。スランプなとき、あなたは存在する。
人々と楽しくやっているとき、あなたは存在しない。だがあなたはどうやって人々と楽しくやろうかと「考えて」いる。
つまりあなたが存在するから、人々と楽しくやることは不可能だということだ。
自分は他者あっての存在だという理解をするとき、実在する自分などいなかったことを知る。じゃあ他者だけがそこにあるのかといえばそれも違う。自分(という価値)がいないから他者(という価値)もいない。
みんなと楽しかった記憶というのは、楽しさだけがそこにあったのだ。確かに誰かの言動が楽しかったのだろうけども、その誰かを浮かべると自分も同時に浮かび上がる。だが記憶の真っ先に来るのは「楽しかった」という感覚だけだ。その時点では他者も自分もまだ浮かんでいない、思考は遅れてやって来る。つまり実際あったのはその「楽しさ」だけなのだよ。
この「存在性の原理」をまず理解することだ。
そして次に「すべてでひとつの存在(=動き)」であることを感じることだ。考えるのではない。全体が動いている様子を感じることだ。
物事を「感じる」ときあなたは存在しない。だが物事を「考える」ときあなたは存在する。上の電車などの話は「受動」であるが、こちらの話は「能動」だ。つまり自ら存在を失うことができる。
よく言われる「瞑想的に在れ」とはこのこととなる。
目の前に誰かがいてあなたを見ているとしよう。普段あなたは「見られている」と考え始める。だがそうではなく、彼が見ていることを感じるようにしてみることだ。
すると見られているあなたは消える。そして彼の「見ていること」とひとつになる。まるで彼が見ている視界をあなたも見ているような感覚になる。もちろん何かが見えるわけではないが、どこかに入り込んだような研ぎ澄まされた静寂を感じるはずだ。
これは誰かと会話をしているときでもそうだ。相手の話にどう答えようかとかを考えるのではなく、相手の声という「音」をそのまま感じてみるといい。何もない空間にその音が現れては消えていくだけとなる。
するといまそこにある実存に触れることができる。
そのとき、あなたはいない。
いまのあなたは人前で堂々とやっている人々を不思議に思うだろう。いったいどうやったらあんなスキルを磨けるんだ?とね。そのためには様々な問題を乗り越えなきゃならないと思っている。だがその姿勢がその問題を継続させるのだ。
まとめておこう。
人間関係のなかで自在に泳ぐには(仕事などもそうだが)、自分が消滅していなければならない。だが自分が消滅しているためには、他者が存在していないことが先にある。
たとえば空気はそこに溢れているけども特に意識はしていない。それは考えていないからだ。考え出すと呼吸が不自然になる。だが感じているときは呼吸が乱れない。
それと同じで他者との関わりのなかで「見ること」や「音」といった関係性の「橋」だけを感じることだ。
なぜ相手の視線から逃げてしまうのかといえば「考えるから」であり、相手の「見ていること」を感じようとすれば、あなたは相手から目をそらすことができなくなる。というより「見られている」ということを忘れてしまう。
そしてそのとき、とても心地よい体験をするだろう。
なぜならそれが万物の背後に流れる大いなるエネルギー、すなわち思考で隠されて見えていなかった「生命の本質」に触れているからだ。
あなたの良き日の思い出、それは生命感に満ち溢れていた。つまり表面的な物事に固執せず、意味を見出そうともせず、ただ単純にそこで起きていることを受け入れていたのだよ。
だからいいかい、どんな場合でも瞑想的であることだ。
考えるのではなく、感じることだ。
自分さん
返信ありがとうございます。
僕は自分さんからの今までの返信をよく読み返すのですが
自分さんのメッセージはいつも紳士的で透明感を感じます。
なので時々飛躍的過ぎてついていけないな、と思った物も
あったのですが、その裏側にある絶対的な物があるから
信じて読む事ができたのかもしれません。
お陰様で何度かのやり取りを通して、長年表面を塗り替える事しか
見えていなかった自分が求めていた本当の解放が文字としての
形になってこうして目にする所まで来る事ができました。
本当に感謝です。ありがとうございます。
>>社交的でみんなに取り囲まれていた頃、そのことは肌で感じていたはずだ。
もう忘れてしまっているかもしれませんね。ただあの頃は他者という存在は世界に無かったように思います。だから他者を意識する事もなく、自分を意識する事もなかったです。正にとんとん拍子で見ているだけ、という感じでした。子供の頃は誰でもそうなのかもしれませんけど、
>>「存在」は常に何かの反射でしか成立しない。それは自分であっても他者も物も出来事もそうだ。
これはつまり対象を意識する事で自分が存在するということですよね。
電車の中でボケーとしている時はリラックスしているのに対し、気になる異性やら意識してしまう物が認識された途端、自分出来てが突き刺されてしまうわけです。
>>つまりあなたが存在するから、人々と楽しくやることは不可能だということだ。
はい、自分を意識した途端に全てがダメになってしまいます。
どうする事も出来ないようなもどかしさがあります。
>>よく言われる「瞑想的に在れ」とはこのこととなる。
目の前に誰かがいてあなたを見ているとしよう。普段あなたは「見られている」と考え始める。だがそうではなく、彼が見ていることを感じるようにしてみることだ。
なるほど、僕は瞑想的であるという事をまったく理解できていませんでした。
僕にとっての瞑想は、身体に意識を向けて暴れるマインドを落ち着かせる
事になってました。
この見られている感じというのは、僕の場合は相手が自分を見ていなくてもこちらが一方的に相手を認識している場合でも陥ってしまう事があります。心がグサッ、となっている状態です。
この場合も同じで感じる事ではなく、考えてしまっているという事ですよね。
>>他者との関わりのなかで「見ること」や「音」といった関係性の「橋」だけを感じることだ。
実は涅槃の書の瞑想系の記事でよく感じること、や関係性だけに在る
みたいな物は良く読んでいたのですが、まったく分かりませんでした。
ですがこれを気にもう一度瞑想の記事を読んでみようと思います。
>>なぜ相手の視線から逃げてしまうのかといえば「考えるから」であり、相手の「見ていること」を感じようとすれば、あなたは相手から目をそらすことができなくなる。というより「見られている」ということを忘れてしまう。
という事は僕は考え続けているという事ですよね。
確かにそうなんです。何かある事に頭の中でいろんな反応が
起こってます。常に対策の一手を講じる事だけでした。
>>だからいいかい、どんな場合でも瞑想的であることだ。
考えるのではなく、感じることだ。
感じること?、まだ何も掴めていないのですが
この事をもう少しやってみようかと思います。
buruku10さん
>感じること?、まだ何も掴めていないのですがこの事をもう少しやってみようかと思います。
そう感じることだ。あなたは世界に対して2つのアプローチができる。ひとつは思考すること、もうひとつは感じることだ。それらは排他的であり同時にはできない。
「考えること」は未来と過去を知る。
「感じること」はいまここにあるものを知る。
不安は未来や過去にあり
安心はいまここにある。
だから「いま」に在り続けることだ。最初はほんの一瞬しかその次元の扉は開かない。つまりすぐに思考の扉で閉ざされてしまう。その一瞬でさえもコツを掴むまでは難しい。
だが何度もトライしていれば、好きなときに「いま」に在れるようになる。意識的であることを忘れないことだ。
よいかな?
あなたは外のことを解決しようとしている。そのことから頭を外すといい。そのかわり「自分自身の在り方」だけを解決しなさい。ならばあとは成るようになっていく。
自分さん
返信ありがとうございます。
最近は朝夜の瞑想も辞めてしまったり日常の中でも
身体などを意識して過ごす事をまったく辞めてしまっていました。
初心に戻りまた初めてみようと思います。
僕にとっての今を意識するようにします。