人間を知るための2つの方法
あなたは人生を変えたいと願っている。そのためには自分の心をどうにかしなきゃならないと考えている。だがその「考える」のが心そのものゆえに、なかなかうまくいかず歯がゆい思いを繰り返している。
瞑想をしてもそのとき解放された気分になるだけで、またすぐに戻ってしまう。単なるカンフル剤にしかなっていない。そうなると瞑想の行為そのものが耐性を持ち始めてしまう。薬がだんだん効かなくなるようにね。
それは瞑想が思考的な手段に成り下がってしまうからだ。本末転倒しているといえる。だから思考優先の状態から抜け出て、瞑想的な視界が常時開いていなければならない。それが人間の霊性であり、本来のあり方なのだ。
よって初めの段階においては、スピリチュアルの知恵だけではジャンプ台としては力不足なのである。あなたの心が重すぎてまったく舞い上げてはくれない。
つまり「人間とはそもそもなんであるのか」ということを知り、いまある現実を見定めることが大事なのだ。あなたは人間であり、そして人間の世界のなかにいるのだからね。
そこで今回は「人間を知る」ための2つの方法を話していこう。
1.
まずあなたにとっての「私」や「私の世界」ということを探るには観念論としてのアプローチが有効となる。
いつも言っているように物も他者も自分の思考でさえも、すべては心に浮かんでいるものであり、ありとあらゆることが肯定されるが、心のうえでは決して否定することができない。「否定すること」さえも肯定されているからだ。
ここがポイントとなる。つまり物事からどれだけ逃げても、逃げようとしている自分がいる限り、決して逃げきれないということだ。すべては「自分が思っている世界」であり、ゆえにその「思い込み」をいかに抽象化していくかが、己の心を超克する(克服して乗り越える)ということになる。
例をあげるなら、悪があるのは正義であろうとするからであり、またいまが退屈なのは、いまここにないものに期待をしているからである。
だからいま抱えている表象(心の像)を否定すること、だが先のようにそれは完全な否定ではないから、その否定にさらに否定を重ねることで、そもそもの定義の意味を失わせることができる。
たとえば正義か悪かという問題について、どちらでもない、どちらでも別に構わないという第三の中立した視点に立つようになる。
よって心に浮かんだ物事をその内部から解決しようとするのではなく、中立した視点に一度立ってみることだ。そこからであれば、物事についてバイアスなく(囚われることなく)自在に取り扱うことが可能となる。
これが観念論的アプローチとなる。主体は自己にあり、自己が観ていることによってすべては存在しているという視点だ。
2.
だが個人を超えたもの、人間関係や仕事についてなど「社会」を考察するならば、唯物論的に捉えていくほうがよい。唯物的というのは、主体が物事のほうにあるという見方のことだ。
たとえばバットとグローブがあれば、そこにすでに「野球が前提とされている」ようなね。この「前提とされている」というところが重要となる。
つまり私たちはその「前提」を知らずのうちに受け取っており、さもそれが当たり前かのように、その前提という土台のうえで物事を為したり語ったりしている。
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