それでも明日はやってくる

人間はなにを始めるにしても
まずその理由を見出してしまうものだけども

たしかにある結果は
かならずその原因となる何かがある

実際その信念が人間に敷かれているからこそ
科学やその他の理屈にしろ
刑事裁判で並べられる証拠や動機にしてもそうだが

“人間の世界”が成り立っているわけだ

そして私たちは
そんな世界で暮らしているがゆえに

日常生活のなかで
小さな物事にも原因や理由をみつけるだけでなく

原因さえ作ってしまえば
その結果は必然ゆえに許されるはずだという
無頓着さも備わってしまっていたりする

代表的なところでいえば
言い訳がそうだね

禁酒をしてるはずなのに
今日は祝える出来事があったのだから
飲んでもいいとか

今日は嫌なことがあったから
飲んでもいいとか

今日は何もなくて無駄に終わらせたくないから
飲んでもいいとか

つまり何があってもなくても飲んでいいことになる

私の周囲にも大勢いるが
まあ酒飲みというのは
自ら禁止していたにもかかわらず
理由を作っては欲求を肯定しようとするわけだね

同じパターンでいえば
物事を後回しにする癖がある人にしても
そのままじゃ心苦しいから
やはり言い訳が作用してるだろう

だからいけないとわかっていても
つい心が緩んでしまうときというのは
その自分を理由をつけて許してしまうのだけども
大体は後悔することになる

なぜなら本当は
直接的な原因なんてものは存在しないからだ

原因と思っているものには
そのさらなる原因があり
そしてその原因にもさらなる原因がある

そうして”原因”は無限に後退していくわけで
つまり原因なんてのはないんだよ

コップが割れたのは落としたからではない

落とすことになった指の力加減や
その時の心理状態
滑りやすいコップの材質があり
そしてそれらもなぜそうなったのかの原因があり
その原因にも原因がある

 

心の悪魔

そうしてみれば
なぜ動物は同じ地上で暮らしてるのに
彼らの世界には学問も裁判もなくても
成り立ち続けているのかがみえてくる

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