「ないこと」が「あること」

どこの国にも広く伝わる古い寓話があって
もちろん地域ごとに話のパターンは多様だが
伝えている”本筋”は同じにある

だいたいこんな感じだね

──

ある金持ちの家の前の地面で
貧しい物乞いが倒れていた

だが金持ちは施しをしてやらなかった

やがて物乞いが死ぬと
引き上げられ天空から見下ろし

金持ちが死ぬと
地面に落ちて苦しむことになる

つまり生前と死後で”立場”が逆転するわけだ

金持ちだった者は
天空にいる物乞いに助けてくれと懇願するが
しかし不思議な声が2人の間で鳴り響く

お前たちの間には深い裂け目がある
その溝を越えて渡ることはできない

──

単純に読めば因果応報の教訓話でしかないが
そうした一般的な倫理で留まらせず
少し踏み込んでみれば
“私たち”が常に対立した関係にあること

むしろ対立した関係があってこそ
私たちの世界が築かれているのだと述べた
“寓意”であることがわかる

よく例える話だけども
単独で青色が存在することはできない

なぜならそれを青色だと”認識”するためには
他の色が存在してなければならないからだ

言いかえれば
青色しか存在しない世界は
青色など存在しない世界にある

どこに”青色”があるというのか

つまり青色が存在できるのは
青色以外の色があるからこそであり
その青色以外の各色もまた
“それ以外”の色があるからこそ存在できる

赤色は赤色以外の色があってこそ
黄色は黄色以外の色があってこそだ

そうして紐解いていけば
すべてはすべてがなければならないわけで
相手が存在しなければ
自分は存在せず

自分が存在するとき
なんらかの相手が存在する

無論”相手”というのは人だけでなく
物事であれ知覚であれ
出現しているすべてのこと

それゆえ”自他”というのは
まさにこの生成や因果の基盤マトリクスのことであり
「私たちの構造」そのものにある

そしてもっとも重要なのは
「認識すること」と「存在すること」は
同義であるということだが

つまり、

──

お前たちの間には深い裂け目がある
その溝を越えて渡ることはできない

──

自分や他者をそこに認識している限りは
かならず深い裂け目があることが述べられている

なによりそれは”自他”であり
なんらかの相容れない同士として生ずるわけで
だからこそ深い裂け目なんだ

その溝を超えて渡ることは
互いの存在を打ち消し合うということ

つまり溝が埋まり
なにもない地平だけがあるが
しかしそれは
「なにも認識するものがない」
ということにある

 

ところでこの寓話には
いろんなパターンがあると言ったけども

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