愛を断ち切るもの
いわゆる”正論”が嫌われるのは
合理性だけを基準にしているからだ
しかしその合理性というのは
その時々の時代や社会が生み出した
枠組みの格子にすぎない
つまり枠組みを保つためだけに
正論は”正論”となる
もちろん社会のルールや法を
尊重するのは当然のことで
別にそれについて指摘されたところで
あなたは腹を立てないだろう
しかし一般にいわれる正論について
「それは正しいかもしれないけど・・でも・・」
と拭いきれない印象があるのは
なにか大切なものを見過ごしているような
そんな気がするからだ
良心の呵責
だがそれはすごいことだね
大体の人は
その見過ごしているものがなんなのかを
言語化できない
だけどもそうして
正論を突きつけられるとき
ちゃんと”違和感“を感じるのだから
もちろんなかには
正論こそが真実だと大手を振る人もいるが
しかしその人もなんだかんかで
“正論”に違和感を感じたりはしている
しかしそれを頭の理屈で盛り返して
つまり自分の理解が足りていなくて
その意見こそが正しい理解なんだと
自らに言い聞かせることで正論主義者となる
それでも正論が飛び交うたびに
違和感を感じる自分を修正する作業が生ずるわけで
たとえばそのような人が
“正論”をかざして弱者を罵ろうものなら
良心の呵責や心の分裂に
耐えなければならないことになる
もちろんそんな心の痛みすら
麻痺してしまった人もいるだろう
だがその人はもはや
時代というプログラムで動いてるだけの
ロボットそのものだということだ
真の”合一”
では違和感とはなんだろうか
つまり見過ごされている大切なものとは
なんだろう?
それはあなたが
誰かに”正論”を突きつけるときに
答えがみえてくるはずだ
まず正論というのは相手の立場を考慮しない
それは逆に言えば
相手の立場を考えなければ
大体は正論になるということであり
たとえばいい歳した人が
自分の親に言いがかりをつけるときがそうだ
「あんたのせいで私はこうなった」みたいなね
親は反論できず言葉に詰まる
だが想像力を膨らませて
親の立場を考えれば
“正論”を述べることができなくなる
たしかに一旦は相手に”立場”を与えて
そこから正論を主張をすることもできるだろうが
結局はその時点で相手の立場を崩していることになる
だから正論は相手に立場を与えないわけだが
しかし私たちはそれぞれ違う個性を持っている
違う”個”であるからこそ
自分と他人という関係性が描かれるが
正論はその多様性や多元性を
画一的なものにしてしまう
それはスピリチュアルや宗教でいうところの
合一ではない
なぜならそれは“同じ次元”で
強制的に統一させているだけだからだ
いわばかつてのナチスのような
全体主義国家の統率と変わらない
“合一”とは
多元的でありながら一元的であること
つまり個々はそれぞれ未完結であるけども
まさにそれゆえに
高次元での統一性が保証されていることの感得にある
愛を断ち切るもの
同じ時代の同じ空気のなかを
たくさんの人々があなたと共にいる
年齢差なんて宇宙からみれば誤差にすぎない
同じときに生まれて
同じときに死んでいく
景気が良くなればみんなで上昇し
景気が悪くなればみんなで沈む
そんな共同体的な意識に
あなたが包まれているならば
なにも恐れるものはないだろう
街を眺めているだけで
勇気づけられるだろうし
良いときも悪いときも
それは”みんな”でそうなんだと知ってる
表面的には個々は別々でも
その奥ではひとつに結ばれているわけだ
しかし”正論”はその気づきを遠ざけてしまう
本当はひとつなのに
時代によって作られた原理のひとつに統合されて
“私たち”はバラバラにされる
つまりその原理に従わなければ
自分は置き去りにされるという恐怖を
与えられるわけであって
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