一周まわって元の場所に戻ってきたとき

列車や高速道路で長いトンネルを抜けたとき
パーっと明るい風景が広がるけども
“自由”というのはそれによく似てる

つまり不自由のトンネルを抜けたときにこそ
自由はそこに開くものであって
不自由を拒んでいるだけでは到達はしないんだ

たとえば自由な気分を味わいたくて
公園に出かけて樹木や花をみていても
「こんなことしてていいのだろうか」とか
いろんなことが頭をよぎるだろう

落ち着かない何かが
心の片隅でゆらゆらしてる

それは結局のところ
ただ単にスケジュールの調整をして
公園に訪れているだけであって
自由のふりをしているにすぎない

週末に部屋でゲームをしていても
月曜日の出社のことが気になっていたり
それを忘れるために
酒や浪費をしたところで
そのツケで余計に辛いことになる

自由は求めて掴み取るものではないんだね

この理解はとても大事で
自由になりたくて外に出たところで
それは失敗に終わるということだ

たとえば「本当に自由な人」というのは

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