愛と虐待

知人の奥さんが夫の実家に帰省したとき
そこのお義母さんの暮らしぶりをみて
仰天したと言っていた

たとえばフライパンで野菜を炒めるとき
噴水のように油が舞い上がり
お義母さんは
「1分もすればおさまる」と話すが

蓋をしたり最初に水を切ったほうがいいと
奥さんが伝えると

不機嫌な様子で
「いつもこれでやってきたからいいの」と反論し
あとでギトギトになった壁や床を掃除していた

どうやらそれも”いつものこと“らしい

また飼い犬がトイレシートとは違う場所で
粗相をするたびに怒鳴りつけて
「いつも掃除をさせられてもう大変」と
だから粗相が広範囲にならないように
犬の活動範囲を柵で囲ったはいいが

どんどんそれが狭くなって
もうそのワンコは四六時中トイレのなかで
生活している様子だという

 

“当たり前”の世界

さてこのお義母さんの一面は
私たちの”現実世界”について
重要な示唆を与えていることになる

つまり彼女は
何かが起きてからその対処に追われているだけ
人生が過ぎているわけだが

その何かが「なぜ起こるのか」には
意識が向かないんだ

跳ねた油で火傷をすることもあるだろうし
そんな様子じゃ壁紙や床も痛みが早いだろう

ところが彼女は
「これは当たり前のことだから仕方ない」として
その治療や修繕の出費を重ねてきた

料理をする以上それは”必然”であり
それを避けたい人が外食をするんだと
彼女は思い込んでいたりする

他の人からすれば
外食はそういうものではないし
また自炊もそういうものでもないだろう

しかし彼女の世界では”そういうもの”なんだ

もちろんそれが悪いと言ってるわけでもなく
またそうではない世界を強制するのでもない

ここで理解すべきは
彼女のなかでひとつの常識(信念体系)が
組み上がっているのであって

その世界は「彼女そのもの」であり
だからこそ奥さんの助言は
彼女自身の存在意義を不安定にさせてしまい
それゆえ腹を立てたということにある

 

愛と虐待は紙一重?

また飼い犬に対しても常にイライラが募り
飼ったことの「義務」としてしか
その子をみることができない

実際お義母さんは
「犬なんか飼うんじゃなかった
もうこの子が死んだら何も飼わない」と
話すらしいけども

つまり最後まで面倒みなきゃならないのが
「私の愛情」なんだと信じ込んでいる様子にある

彼女にとって
愛とは義務であり自己犠牲にあるが
しかしそれでは何の喜びも生まれない

出会えた喜び、一緒に暮らしてきたことの喜び
また犬と暮らす日々を
「可能」にしているこの世のあらゆる感謝は

彼女にしてみれば
そのワンコが死んだあとに
回想としてのみ与えられるものなんだ

だから彼女がまだ生きてるその子を愛するときは
その子にはそこにいながらも
視界からその姿を
消しておいてもらわなければならない

姿が目につくとただイライラするだけだからだ

姿がみえないからこそ
「あれをしてやろう」と思えるわけで

「愛しているがゆえに辛く当たってしまう」
といったアンビバレンスな心の原理は
こういったところにある

このお義母さんではないが
これは虐待の心理と同じだといえる

当人は虐待しているつもりはなく
だからこそ他人に指摘されても理解できない

自分のしていることがわかっていないんだ

当然関わる他者には不幸しか与えないが
なにより本人も不幸にある

“この奇跡”をリアルタイムに
感じられないわけだからね

それゆえに犬が死んだあとには
思い出と同じだけ
胸を締め付けられる苦しみがやってくることになる

つまりそれはあとになってから
このすべてが奇跡だったと気づいた後悔なんだ

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