正直者は救われる

正直者が馬鹿を見るなんて
ちょっとひどい言葉があるね

世の中を眺めてみれば
他人を蹴落として
傲慢に生きている人のほうが
豊かで恵まれているようにみえる

そんな生き方してたら
きっとどこかで不幸に遭うはずだと
正直者たちは言うけども
その傲慢者は意外と持ちこたえて
最後の最後までも
家族や仲間に見守られて永眠していく

たとえ「物質的な豊かさにすぎない」と
喝破したところで
そうして他人を指摘する心の貧しさが
こちらにある以上は
少なくとも自分よりは豊かなのだ

いやいやもしかしたら
傲慢に見えていただけで
きっと彼らも正直者だったんだと
淡い期待を持つかもしれない

だがそれは正直者の己を
正当化したいだけ
不正直な彼らが恵まれているのを
認めたくないだけなのではないかな

とはいえ「本当のこと」はわからない

やはりその傲慢さゆえに
美しい伴侶や素晴らしい住まいなど
財や成功を掴んだのかもしれない

結局なにもわからないまま
ますます卑屈になっていくのだけども

こうして距離を置いてみていると
モヤモヤ考えている正直者とは
“そもそも違う次元”に
その恵まれた人たちがいるように思えるね

どうやらこの足元に
「恵み」は埋まっていないらしい

もちろん傲慢や不正に生きろなんて
話をするわけではないけども
何か重大なことを見落としていることは
正直者自身も薄っすら気づいているわけだ

 

1

ところである疑問が出てくる

そもそもその人は
本当に正直者なのだろうか

どういう基準で己を正直者だと
言っているのだろう?

人がこの世の悪を見出し
それを許せないと感じるとき
だいたいは
自分の人生がうまくいかないとき

貧しさや惨めさ”ゆえ”に
英雄的な気持ちが芽生えてくる

つまり
「自分は何も間違えていない」
「私は正しい人間だ」

そうして正しさのマントを
身にまとうゆえに
不正が見えはじめるようになる

眼球から正義のビームが出てくる

自分はこれだけやって
あいつらは何もしていない
なのにどうして
あいつらだけ恵まれているのか

神様よ
私をみてくれ

私は潔白で一切の罪も犯していない
人々には自分のパンを分け与え
一寸でさえも
欲深いことを心に浮かべたこともない

そんな純白の私がどうして
こんなに苦労を強いられるのか

どうして純白でない彼らが
幸福に生きているのか

 

2

実はこれは
人類の普遍のテーマであるのだけども
この「問いそのもの」には
結局誰も答えを出せなかった

“問いそのもの”にはね

なぜなら正しいかどうかは
相対的なものであって
己が正しく相手は正しくないという
その物差し自体(問いかけ自体)が
そもそも利己的なものであるからだ

もっといえばその”利己性”によって
己という存在は
ここに現れているからにある

だから問いを解こうにも
それは己を否定することにしかならない

たとえば哲学でよく語られるように
すべてを見ているこの眼球は
眼球自らを見ることができない

つまり見えている世界は
眼球によって規定されたものだが
眼球はその規定の根拠を
発見することができないわけで
目を潰すかそうしないか以外に選択がない

「法」と同じだね

合法か非合法かは
その法の”なか”で線引きされる

だがその法自体が非合法かは
どうやって判断できるのだろう?

この世が「法」のなかにあるなら
そもそもすべてが
最初から間違えているかもしれないのだ

判断どころか
それについて考えることさえできない

実際「人間の社会」というのは
風潮や常識、イデオロギーなど
そうした”見えない枠”で取り仕切られている

だが人々はその見えない枠のなかで
“自分の基準”を与えられていることに
気づいていない

それゆえに
何が正しくて何が不正かを基準にして
自分や他人のあり方を決めるのは
そもそもの足場を踏み違えているのである

もちろん良いこと悪いことを
明確に判断することは大事だが
それはあくまで
社会というゲームのルールであって
己の幸福とは無関係なのだということを
“正直者”は理解する必要がある

 

3

では正直者は
何に気づかなければならないのか

結論を書いておけばこういうことだ

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