唯識(3)完

最近の手記はどうかね
とても難しいです、とも聞く

だが難しいというのは
自身で固めた現実が
「それ」から遠く離れているからだ

あなたは真実の手前に
何層もの壁を設置する
その作業が恒例となっているようだが
その壁を乗り越えることが「難しい」のだよ

自分で障壁を作り
それを跳び越えることで
何かを達成した気分になっている

だがその達成と
そもそもの「それ」は
まるで関係がないことに気が付いていない

世間でのたうち苦しむあなたは
ハードルランナーだ

平坦なグラウンドに
自分でハードルを設置して
何度もホゥ!と跳び越えている
勢いのあるうちはいいが
だんだん疲れてくる
そしてあなたは
効率の良い跳び方を計画しだす

最もメリットのある跳び方
最も損のない跳び方

計画は結構だが
それらは平坦な道を歩くことに
まったく関係のないプランだ

これまでどうやって生きてきた?
学歴に試験にお洒落に人付き合い
それはあなたのためのものかね?
それとも「ハードル」かね?

だから物事を難しく捉えるようであれば
あなたはまだ遠いということだ
解釈が前提となっているからだ

なにも難しくはない
そこにあるものは至ってフラットだ
ハードルを片付けなさい
解釈を捨てなさい
平坦な道を歩くだけでいい
人生をハードモードにしているのは
あなたなのだ

以前も書いたが
何が正しく
何が間違っているか
それを求めるから問題となるのだよ

例えばある覚者が
「動物のようになってはならない」という
そして今度は別の覚者が
「動物のようになりなさい」という

あなたは迷う
どちらの”言い分”が正しいのだろう

彼らは同じことを伝えている
同じ人物がその時々で
相反することを言ってるかもしれない
だが、同じことを伝えている

その本質とは動物がどうであるかなど、
どうでもいいということにある

あなたは言葉という手段に囚われてしまう
それがそもそもの原因なのだよ
マインドとあなたが結ばれるサイン

ロジカルであり
整合性があり
そうして解釈と指輪を交わす

それがバージンロードとなる

 

その問題はどこにあるのか?

以前 ガチョウは外だ という禅問答について
記したことがある

マインドは決して
「それ」を紡ぎ出すことはできない
「それ」を指す矢印を見ることしかできない

異性と出会って恋仲になる
あなたは自ら溢れる愛を感じ始める
だがそれが何なのかわからない
わからないから答えを探し求める
結婚をする
そうして
何かが足りない世界を築きあげてしまう

あなたの人生がいつも欠乏しているのは
答えを求める姿勢から来ている

会社に腹の立つ人がいるとき
あなたは彼の言動を考える
彼との関わり方を考える
そうして「ベストなやり方」を見つけようとする
同じ事を人生というスケールで延々やっている

あなたが「やり方」を見つけようとする限り
到達はない

しかし「理屈」でスピリチュアルを
解釈することはできる
マインドだけで「それ」を学ぶことはできる

だがね、腹の立つ上司に対し

『これは「人との関わり」が起きているだけだ』
『ただそれだけだ』

そのように本を鵜呑みにしたところで
本当に「ただそれだけ」を
受け取ることができるかい?

受け取ろうとするのが「あなた」である以上
それは途方もない苦悩を伴うだろう
どうやって腹の立つ人を
“腹立たずに”捉えることができるのだろう?

いいかい
この時点でマインドに掴まれている
この話を自分事に置き換えてみなさい
すべての物事にあなたは「解決」をする
それはカタチを変えようという意思意向
つまり現状への不満足
欠乏
不満
不足

解決をしようとする世界があるならば
それはどこまで解決をしても
今後も解決に追い回されることを意味する

 

すべてを貫くもの

さて本題に戻ろう

あなたのその世界に唯一変化しないものがある
それはあなたの内奥から貫かれている「主体」だ

だがそれは「あなた」という個人のことではない
あなたすらも貫いている主体がある
思考や湧き起こる感情をも照らしている光線
それを感じ取ることができるかね?

主体とは自覚のこと
内奥にある、
いわば真なる主体に意識を向けることが
自己観照となる

あなたが人生を円滑に送りたいならば
「主体」に聞いてみればいい

主体が望むものはなにか
主体が観ようとしてるものはなにか
あなたがそれに従うとき
無為して為する境地に立つ

少し紐解いてみよう

アインシュタインは絶対的なものはないという
それまで科学は「絶対」が大前提だった
だが彼以降、世界のトレンドは「相対」だ

すべてはそれ自体が存在性を持つのではなく
ある地点から観たときに
それがそのように在る、というものだ

イチローから職業をとる
性別をとる、年齢をとる
さてこの人は誰だろう?

シャワーから役割をとる
それは一体なんだろう?

青は”青以外”から生まれた
それはまるでギャップのよう
隙間にできた影のようだ
あなたというエゴもそれと同じ
その世界から”世界以外”として
産み堕とされたものが
あなたとなる

このようにすべては
相対的なもの
つまり他の関わりによって
その存在性が形成されていることがわかる
だから変容していく
すべては過ぎていくように見える
それは個体が変化しているというのではなく
それを組上げている関連要素がずれていくからだ

だがそれらの存在を照らし見ているものがある
それは唯一の絶対性を持っている
一切の相対的要素と関わっていない
それが「主体」だ
世界のあらゆるものは
「主体」が捉えている

唯一の不変であり
そして普遍的な視点を持つ
主体はずっと世界を見ている
時代を超え、場所を超え、
すべてを超えるゆえに
常にいまここに在るのだ

つまりあなたに起こる問題とは問題にあらず
それを問題とするからそうなのであり
さらに幾多の相対的な関わりからそれはそこにある
それ自体は実質的な問題性など持っていないのだ

さらにいえばその問題ですら
主体に招かれたお客人、
つまり主体が「見るため」に
それが起きているのだ、とわかれば
あなたは鍵を手にしている

何が正しいかなどは
どうでもいいのだということ
アインシュタインから何を聞こうが
それらはすべて「解釈」だ
単なるマインドのカラーリング
そのマインドを貫いている主体があって
カラーは見えているのだよ

 

ここはどこなのか

「主体が望むものはなにか?」

その問いこそが
正しい道だ

なぜなら”それ以外”には
なにもないからだよ
つまり真なる主体とは
「見つつも、見られているもの」のこと

主体と客体はひとつだ
つまり主体がなにを見ているのかといえば
己を見ているのだよ

己が己を経験するために
すべては起きている

あなたの目の前に赤いグラスがある
赤いグラスを見ているのは誰か?
その赤いグラスなのだ
赤いグラスはあなたを通じて
自身を見ている

つまりあなたを通じて
自身を知った、に至る

だが話はこれで終わらない
なぜ「赤いグラス」がそこにあるのかということだ

あなたが怒りの念を持って暮らしているとする
そして怒りとは血の色だ、という信念があるとき
それがカタチとして世界に現れる

潜在意識に刻まれた信念が
形となってヴィジョンに出現する
阿頼耶はそうして自身を”受け取る”のだ

あなたはその赤いグラスを見るとき
単なるグラスとしての受け取りだけではなく
必ず何かを連想するようになっている

例えば、ふと思い出す今日の会社のこと
「そういえばあの上司、腹が立つなあ」
この思考はグラスとワンパッケージだ

交通事故現場も同じことがいえる
思念と事故は2点セットで飾られている

隣の人に「このグラス何色?」と訪ねると
もちろんその人は「赤いグラスだ」という
だがその人にとっては
特に怒りの様子はない
あくまであなたにとってだけ起こる

だが彼も赤いグラスだと認識している
それは、その人の言動も
あなたの世界に起きているのだということ
すべてあなたが納得するようにできているのだ
そのように起こるようになっている

たとえ受け入れがたいものでも
それを完全に納得させる現実が
起こるようになっている
その理由を探せば
いくらでもあなたを納得させる理由が出てくる

すべてあなたの心が世界に刻まれているのだよ
あなたすらその「象徴どおり」に
出力されているのだから

潜在意識を擬人化して表現するならば
彼に悪意はない
彼はただ何かを生み出す
そしてその何かを知るのは
彼しかないのだ

生み出した何かを
永久に経験し続けている

鏡の法則
宇宙の法則

彼は自らが湧き起こすその姿を
存分に味わっている

そこに起こる思考や感情ですら
彼が湧かせた泡のようなもの
あなたはその狭間に生まれたギャップ
あなたがあなただと思っているものも
すべて作られたものなのだよ

創られた者が創られた思考で
一体何を考えるというのだろう
もはや「考える」という行為が
無限で無段階なものではないのだ
「考えること」すら
そこに与えられたパーツのひとつだった

わかってきただろうか

例えば私が話しているこれらは
私の知識と経験と記憶が話しているのだ
私が話しているのではない
つまり私などどこにもいない

どんなに偉いといわれる学者がいても
それはその学者が偉いのではなく
その知識が学者という媒体を通じて流れているのだ

そしてそれらを受け取る者が、そこにいる
あなたはそれが自分だと思っている
だが「あなた」らしき者などいない

じゃあそこにあるのは何だい?

この「話」だけ
この話の「印象」だけだ

この印象を阿頼耶は生み出し
そして体験した

その印象はどんなものかね
それがあなたの世界のテーマカラーだ

 

すべて勝手に動いている

あなたが人間苦を脱したいならば
常に「主体」に気が付くこと
つまり「それ」に意識を置くことだ

言葉は何でもいい
自覚でも
アーラヤでも
神でも
なんでもいい

常にそれに気が付く唯一の法とは
いつも意識的であることだ

あなたは自分で動いているのではない
勝手に動いているのだ
勝手に思考しているのだ
勝手に迷っているのだ

こう書けば
「じゃあ人生に解決はできないということですか」と
あなたは言うだろう

最初から読み直しなさい
解決などどこにも必要ない
問題は問題ではない

そこに起こること
それがすべてなのだよ

あなたが知っていることを誰かに話すとき
それは知識が話しているのだ
あなたが話しているのではない
何かに苦悩しているとき
それは苦悩がそこに起きているのだ
あなたが苦悩しているのではない

だからそれらに同化してはならない
同化は無意識を生み出す
すると阿頼耶は光を失う
カタチだけを生み出して
それを消化できなくなる

前回の通り
すべてはゼロに還る
もともとなにもないのだよ
だから常に意識的にあらねばならない
意識的にそれを消化しなくてはならない

苦悩に同化するとき
あなたは苦悩を避ける方法を探し出す
苦悩を解決する方法に囚われる
それじゃゼロにならない
自他分離の裂け目に飲まれてしまう

主体が望むものを
そのまま流してみなさい
すると何もかもがうまくいくだろう

なぜうまくいくかといえば
それまでのあなたという障壁がなくなるからだ
決してマインドが納得した解決が起こるのではない

街を歩き
あなたに関わりたそうな人がいる
じゃあ関わりなさい
見て見ぬフリをなぜする?

何かが欲しくて
色々計算をして買おうか買うまいか悩んでいる
じゃあ悩みなさい
なぜ買おうとする?
悩みをそのまま起こしておきなさい

そこにあるものを見極めるのだ
素直に受け取りなさい
だが、マインドの都合に
巻き込まれないようにしなさい
そこを理解できれば
あなたは超える

意識的にあるとき
あなたに関わりたい人や物、出来事は
自然と察知できるようになる
なぜならば、体験するべき対象も体験者も
元はひとつのものだからだ

だから無視してはならない
それを受けいれてあげなさい

意識的にあるとき
マインドはあなたから離れた場所に留まる
主体は思考をひとつのシーンとして貫いていること
それが意識を移すことでわかるようになる

すべては起こるべくして起こるのだ
それを遮ることなく
起こしなさい

その起こりこそが
“存在”なのだ

その現象
それが人や動物、出来事、感情など
あなたの知る様々なものとして
「そう見える」のだよ

神はいない
そう悟るとき
あなたが神の座に就くだろう

 


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  1. あき より:

    いつもありがとうございます。

    数時間前まで明日死んでしまおう
    と考えていました。
    私にとって自殺とは、世間で言われるような罪な事とは思えないのです。
    自分を守る為にはもうそれしかないと考えました。
    それが起こるならそれが流れなのだと。

    明日どうなるかはわかりません。
    私は最後まで流れに任せてみます
    数時間前まではまさにマインドの都合に振り回されていました。
    流れとマインドの意味を履き違えているかもしれないけど

    今はこうして自分さんと繋がりたくて、何か質問を考える自分がいます。
    ただそれだけ
    ここに何か書きたかっただけ。
    だから書きました。

    なんの意味もないコメントでごめんなさい(笑)

    • 自分 -涅槃- より:

      あきさん

      今日はあなたに至るまで
      多くの人にコメントを残した

      あなたにも伝えられることを
      たくさん書けたから
      ぜひ読んでみてほしい

      何も心配しなくて大丈夫だ

      あなたへ言葉が生まれるために
      こうして
      みんながいてくれる

      みんなのために
      あなたもいる

  2. 爽やかさん より:

    「私」には「起こり」を変える事は出来ない。

    なぜなら「起こり」は、「私」ではなく「それ」が起こしているから。

    「私」に出来る事といえば、その「起こり」に色をつけることくらい。
    それが、意味付け。

    そして「私」は、勝手に「赤くなったり、青くなったり」している。

    もし、「私」が「起こり」を変えたければ、「それ」まで戻らなければならない。

    しかし、「それ」まで戻った時、「それ」は「起こりを変えよう」とするだろうか?

    そもそも、「それ」と、「起こり」とは、別々のものだろうか?

    実は、「それ」のタイムラグが、「起こり」なのだ。

    だから、「それ」まで戻る事が出来たなら、

    「それ」は、笑いながら「起こり(「私」を含む)」を観ているだけだろう。

    • 29歳 より:

      上記の爽やかさんのコメントは、とても素晴らしいですね。

      何かが起こることを期待する自分が最後までいましたが、
      ようやくじっと席に座り観照する気になったようです。
      「それ」を見出し「それ」に帰るまで、8年以上もかかりましたが…。

      唯識にて述べられていた内容を
      実際に生きるようになるのはこれからかもしれません。
      みなさま、おつかれさまです。

    • 爽やかさん より:

      29歳さん。
      どうもありがとうございます。

      ひとつ下のコメントも読んでもらいたくて書いたのですが、よく「体験者はおらず、体験だけがある」っていわれている事について書いてみました。

      私が体験したのを思い出しながら書きました。

      私的には、この表現は少し違和感があって、「体験者はおらず、「それら」を見ている」の方がしっくりきます。

      ここでいう体験者はおらずの体験者とは、「私の首から下のボディ」で姿もあり行為をしていますが、実態がない幻みたいなものです。だからこの人は体験していない。

      「それら」を「姿のない、それ」が笑いながら見ている感じです。

      返信は結構です。ありがとう。

    • 自分 -涅槃- より:

      29歳さん

      手記の中でも伝えたが
      どんなに高名な偉人が書いた伝承であろうと
      それすらもあなたの世界に現れたものだ

      ジャニーズの新曲と何ら違いはない

      あなたがそれに価値を与え
      そこに何かを見ようとしているに過ぎない

      アイドルを追いかけることで
      エキサイティングな人生の人もいる
      瞑想的に生きることで
      鮮烈な自己を見いだす人もいる

      どちらも素晴らしい
      なぜ素晴らしいかといえば
      起こりをピュアに起こしているからだ

      そういうとき
      魂は「存在」できる
      意識に光が灯される

      重力を超え
      時間の支配を超える

    • 自分 -涅槃- より:

      爽やかさん

      その通り

      誰もが「私」を中心的な実存だと錯覚している
      そうではなく

      起こりがあり
      それが起こるのだ

      このシンプル

      見えるものは
      見えるためにある

      つまり見えるものとは
      見るものそのものなのだ

      「私」とは
      あらゆる「起こり」の影が重なったもの
      決して「私」が見ているのではなく
      「私」が経験しているのではなく
      「私」起こしているのではない

      「私」が私を捨てるとき
      つまい「起こりの座」に腰を降ろすとき
      すべての真実が「真実」となる

  3. 爽やかさん より:

    ただ「事」が起こり続けている。

    それを体験している「人」はいない。
    でも、この「人」は行為をしている。

    どういう事かと言うと、
    この「人」も「事」の中に含まれていて、その中では、ちゃんと行為をしている。

    そして、この「人」のすぐ後ろに「それら」を笑いながら観ている者がいる。

    あえて言うなら、これが「体験者」。

    でも、その体験者の姿はない。

    だから、言えるとしたら「体験」だけがある。

    • 自分 -涅槃- より:

      爽やかさん

      体験と体験されることがある
      それらはゼロとしていつも解消されていく

      見たら、見える

      そのループが生だ
      その通り

      ただ「背後の誰か」は
      あくまで表現として留めておきなさい
      何かがいるのではなく
      その誰かですら
      常にゼロだ

  4. 魔像 より:

    こんにちは。
    質問したいのですが、
    考えたくないのに、心の中で他人を見下してるような感情が湧いてくるのを感じたり、体の内側で性欲が動いてる感覚を感じます。
    これらはどうしようもないのでしょうか、無視するしかないのでしょうか。

    • 自分 -涅槃- より:

      魔像さん

      無視、というよりも
      それに同化せず
      ただの漫画の吹き出しのようなものだと
      受け取りなさい

      そうして「距離」を作る習慣を持ちなさい

      あなたはそのコメントの時点で
      すでに気が付いているから
      すぐにわかるはずだ

  5. 困ったさん より:

    自分さんいつもありがとう。
    午前中、見させていた時、(大変失礼ですが長いから後でゆっくり見よう)とタイトルちら見で別のことしてました。夜、エクソダス 神と王という旧約聖書の出エジプト記に綴られたモーゼの海割り映画見てて、ここの神様てすごいなと思ってて。十戒に神様の名前出しで怖いだしいので言わないけど、この神様こええなと思って。
    あとこの神様は「私はある」って言ったときいてマハルシさんと同じこといってるなと思いました。

    それと別に意図なくなんとなく地球の自転と慣性の法則が思い浮かんで(別に本当に意味無く)
    検索かけたら子供にわかりやすく相対性理論と特殊相対性理論を教えてあげる方法と物理の先生の所に繫がりまして。重さははエネルギーと同じと子供向けにわかりやすく説明してくれてたから何となくウンウン。
    納得してました。一番、納得してたのアインシュタインが学生時代、最初に疑問に思ったこと。

    光速の話で自分が光の速さで飛んだら自分の姿は鏡に映るのだろうか 顔が鏡に映るのは顔からでた光が鏡に反射して自分の目に戻ってくる。これを光速と同じ速度で自分がとんだら光は自分より前にいくことはなく鏡に映らないのではないかと。しかし前に進まない光でなど無いのではないかと。

    で、ごめんなさい、物理の薀蓄がたれたいわけでないんですが、記事の内容とねw 思ったことが全て納得できて。このアイシュタインの光の話でやはり見るものと見られるもので光のやり取りしてるんだわ、全ては光なんだな、スピリチュアルとは関係ないが物理的に納得できる話なんだなと納得してたんです。

    で、今日の記事がアインシュタインで記事とおり、あれ?でも相対性は重力=エネルギーじゃとか頭に公式浮かんでたら、アインシュタインがどういおうと関係ないと納得させるようになっているで、本当に腑に落ちました。

    ああ、ああ、で、偶然関連記事の一番上も光の中があがってるし。神はいないまでは悟りきれないけど思ったこと、今日見た映画や物理、そして午前中は読まずタイムラグを得て今、初めて読み、このタイムラグも全てはもうお見通しくらい辻褄と納得でした。
    ありがとうございます。

    • 自分 -涅槃- より:

      困ったさん

      例えば神秘的な事象について
      科学的な解釈はいくらでもできる
      それが科学だ

      だがそれは次から次へと
      分けて整理しているだけに過ぎない

      多次元的な解釈というものがある
      次元という言葉から
      宇宙的なイメージを持ってしまうだろうが
      単に視点のことだ

      あなたが別の視点で世界を見るとき
      時間を物理的に扱えるようになる
      相対性理論ならば五次元のポジションだ

      科学は何も生んではいない
      生み出すのはあなたなのだ

      手記を読んでいるときに
      偶然、関連した映画を観ていた
      それはあなたがそのように想起させたのだよ

      くどいが
      それが五次元だ

      重要なポイントは
      実際に起きた出来事に確証を求めることではなく
      それをどのように感じたか、
      それが視点というものだよ

      すべて、結果が先にある
      原因を探れば
      原因という結果が作られる

      そうして延々と結果が作られる
      それが量子論

      量子論とすれば格好がいいが
      所詮、それも視点のことだ

      つまり、あなたのことなのだよ

  6. 困ったさん より:

    相対性理論ってなぜ相対性理論って言うの? – Yukihy Life

    一応、もしかしたら何かのヒントというか人によっては固定観念や常識を変えやすくなると思うから、関心ある人は検索かけてみてください。

    数学公式とか物理公式はでません。お話です。
    相対と絶対のわかりやすさ。
    最後の人によってずっと絶対だったと思い込んでた時間や距離は実は相対で光だけが絶対とか。
    理屈で答えとかだそうとせず計算すっとばして読み物として読むと絶対であるものは光のみで自分たちの感じ方で曖昧なもの絶対と思い込んでたんだなと思いやすくなるかもしれません。

    • 自分 -涅槃- より:

      困ったさん

      最終的には
      そのすべての公式を見ているものが
      それらを起こしていることに辿り着く

      淡々と暮らしている近所のおばあさん

      朝起きて洗濯物を干し
      昼は掃除
      夜は眠る
      人生に意味を求めず
      水の如く
      世界に流れている

      その姿こそが
      すべての公式を超えている
      その姿を知る私が
      その世界なのだ

  7. ONEPOINT より:

    観照を続けてきて意識的に生きる
    というのが大変難しいというか
    難しい生き方をしてきてしまったんだなあと思います。
    マインドによる誘惑が強烈で
    まるで麻薬中毒のようです。

    寝ぼけていた頭が醒めるのはまだ時間がかかるかもしれませんが
    なるべく意識的な時間を増やしていきたいです。

    それといつもどんなコメントにも返信してくださって
    ありがとうございます。
    くれぐれもご無理はなさらないようにしてください。

    • 自分 -涅槃- より:

      ONEPOINTさん

      要点を逃してはいけないよ
      観照とは「する」ものではない

      毎晩、眠りに入るときと同じ
      あなたは環境を整えるだけだ
      あとは勝手にそれが起こる

      心配してくれてありがとう

      良い機会だから
      これを伝えておこう

      あなたの向けているものは
      あなた自身に必ず戻る
      そしてあなたに起きているものは
      必ずあなたが世界に返している

      この意味を熟考してみなさい

  8. しん より:

    主体なんてホントにあるの?
    自分さんの妄想じゃないの

    • 自分 -涅槃- より:

      しんさん

      その通り
      ここに書かれていることは
      すべて私の妄想だ

      さてあなたに疑問が湧き起こる

      あなたの人生のある日時で
      たまたま読んでいたブログに
      疑問を問いかけてみた
      するとその著者は答える

      そう、これは全部嘘だよ

      あなたは意味がわからない
      そして「納得」を探し始める

      「あっさり認めたが、どういうことだろう」
      「ならこの男は一体何のために書いている?」
      「ただの精神病なのだろうか?それとも金儲け?」
      「妄想と答えて煙りに巻くつもりかもしれない」

      そうして「解決」への旅がはじまる

      あなたがコメントした
      「唯識(3)」という手記は
      まさにあなたのためにある

      覚えておきなさい

      あなたの人生に起こるすべてに
      真偽がどうだろうが
      なんだっていいのだよ
      確かなのは
      あなたの人生にそれが起きたということだ

      もしかすると
      あなたは一生この謎を持ち運ぶかもしれない
      それは不幸なことだが
      あらゆる不幸な人々は
      それと同じことをやっている

      だが死の間際に気が付くだろう

      「この抱えてきた問題を解決できたとして
      一体、何があったというのだろう?」とね

      そして、その疑問があったこと
      それが人生だったのだ、とわかるようになる

      そのとき、初めてあなたは「主体」に気が付く

      だが言っておくよ
      もしあなたがもっと早くに
      世界の出来事を「一切の判断なく見ていること」
      それに気が付いていたら
      その場その場で変わる価値判断などに
      振り回されず
      純粋に人生を受け入れ
      そして存分に楽しんでいた

      世界の出来事はあなたの意思に関係なく起きている
      それは確かだろう?

      だがなぜそれを知っている?
      それは出来事が起きたからだ
      出来事が起きたこと
      それは「起きたこと」を認識したからそうなのだ
      つまり「あなたの意思」とは関係なく
      起きたことを認識している何かがある

      それが
      主体だよ

      言葉にするとややこしいが
      いまそこで起きていることを
      あなたの価値判断なく受け取ってみなさい

      ただ起きている、
      それを「受け入れていること」自体が
      主体なのだよ
      主体は何らかの個体ではない
      生命体でもない

      ところで
      あなたの今朝の出来事
      それは本当にあったのかね?

      この考案を熟考してみなさい

      本書を読んだことすら
      あなたの妄想であることに気が付くだろう

      つまり、あなたの言うとおり
      ここはすべて「妄想」となる

      あなたがそうならば、そうなのだよ

  9. 爽やかさん より:

    「それ」から見たら「私が行為をしている姿も、目の前の世界」も「幻想」だ。

    でも、「それ」から外れると見事に「私」は個となり、実在する。
    そうなると、「私が体験」することとなる。

    ああ素晴らしいではないか。

    「それ」は、ほぼ笑って観ているだけだ。
    「私」には体験が出来る。

    でも一つだけ注意が必要だ。
    私が無意識では「他者」を生きることになってしまう。

    だから「私」に「それ(意識)」を当てるのだ。
    意識的に生きるのだ。

    それはたえず「私に気付いている事」。
    ただそれだけだ。

    注意力散漫な私は、すぐに「他者の視線」を生きてしまう。

    だめだ、だめだ。

    私の視線を取り戻して「私」を楽しむのだ。

    “たえず私に気付いている事”
    これだけで「それ(意識)」と合体する。

    素晴らしき二人羽織。
    RPGのスタートだ。

    そこは「なんだ これ」のステージだ。

    迷う、なんて事は存在しない。
    選択? それはどういう意味だ?

    ただ目の前に要るものだけがポンポン用意される。
    いや逆だ。
    もうそこに置いてある。「見たら置いてある」だ。

    それをポンポンこなして行く。
    それだけだ。

    そして、また戻りたければ、「それ」に戻ればいい。
    戻って「珍プレ~」を観ればいい。
    間違いなく笑ってしまうはずだ。

    そうなのだ、私は「2人羽織」と、「観ている」の両方を楽しめるのだ。

    • 自分 -涅槃- より:

      爽やかさん

      よろしい
      釈迦はこの世に残った
      イエスは処刑のときまで伝え続けた

      彼らはマインドと意識を行ったりきたり

      私も同じ
      現代ならば
      書籍を書いたり
      ブログを起こしたり
      そんな人々も同じ

      みんな行ったり来たり

      私と交流のある僧侶たちも同じ
      みんな

      行ったり来たり

      あなたのその様子
      何も迷うことはない

      行ったり来たりが
      基本だ

      大切なのは
      行ったあと、
      そこに「行っていた」と気が付くことだ

      それを常に意識しておくことだよ
      「いま」は人間の解釈で捉えることはできない

      覚えておきなさい
      すべて、過ぎたものなのだ

      過ぎたものしか
      あなたは経験していない

      だから
      行ったり来たり

      それを思い出しなさい

      「思い出すこと」

      それがすべてだ
      すべては思い出なのだよ

      行ったり来たり

      すべては循環している
      その「ゆらぎ」
      その「波長」

      体験は「記憶」

      これを絶対に忘れてはならないよ

  10. ただの思考 より:

    自分もしくは自分の目は阿頼耶を映し出す鏡といったところでしょうか。
    鏡に映ったものを見て自分のこととして良し悪しを判断している。
    しかし、鏡はあくまで鏡で、映し出すものが汚れているからといって鏡が汚れているわけではない。

    近頃はマインドを観ることが少し面白くなってきました。
    「(マインド君)今日はおとなしいな。いつもならイライラするのにね。」などと静観する機会が増えてきました。

    • -自分- 涅槃 より:

      ただの思考さん

      唯識は真理を解釈したものだから
      解説者や読み手により
      その内容が異なってくる

      大事なのは
      「唯識とやらをあなたがそこで読んでいる」
      ということだ

      すべてはあなたの体験の中にある
      どんなに偉大な人物も発明も
      宇宙も科学も
      大金持ちも美男美女も
      すべてあなたの中だ

      あなたがいるから
      すべてがある

      これが”唯識”となる

  11. なつき より:

    自分さん、こんにちは。

    唯識について、初めて知りました。
    すべては自分で生み出していたんですね。
    勧めて頂いた唯識についての
    わかりやすそうな本も
    今日届きますので
    そちらも読んでみようと思います。

    自問自答するといいと聞いて
    少し前から時々していました。
    問いは問いのままでいいという事が
    わかってきた気がします。
    ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      なつきさん

      私は宗教家ではないが、仏教の骨となっているものが唯識となる。唯識は難解だと言われるが、それは現実にどっぷり浸かっているからそう感じるだけだ。

      逆に言えば苦悩の現実を送っている人は、唯識を理解できない。理解する余白を持っていないのだ。だから最近のコメント欄がご覧のようになっている。私の愛すべき仕事が増えたということだ。

      覚えておきなさい。現実に浸かっていると、Aに辿り着くにはBとCが必要だとなる。だがよくよく考えてみると、自分がいまここにいることについて、BやCを集めてきたのだろうか?

      マインドは「人生はうまくやっていかないと大変なことになる」とアラートするが、あなたが今日、いまそこに至るまで、一体どれぐらいの数のハードルを越えてきたというのだろう?

      仮に25歳なら、25年間、一度も寝床や食料を欠かすこともなく、空気や水が枯渇することもなく、毎瞬繰り返される細胞分裂がエラーを起こすこともなく、それはマインド的にはどれぐらいの「確率」なのだろう?

      唯識はそういう話を相手にしない。現実とは「嘘」だからだよ。もし宝くじ以上の確率であなたがそこに奇跡的にいるなら、「確率」として考えてみれば、この先も勝手にうまくいくはずだ。マインドは必ずそういう矛盾にハマるようになっている。

      そうではなくあなたはいまそこで出現したのだ。もっと詳しく言えば「あなた」はそもそもおらず、「体験」だけがそこで起きているのだ。体験がいくつも起きて、あなたは自分が生きていると錯覚しているに過ぎない。

      だからAが起こるとき、BやCは必要ないのだ。いまがAなのかどうかだけだ。いまがAならばBやCはすでにそこにある。 いまあなたがそこで生きているようにね。

  12. なつき より:

    自分さん

    お返事ありがとうございます。
    お礼が遅くなってすみません。
    ゆっくり読み返していました。

    だからAが起こるとき、BやCは必要ないのだ。
    いまがAなのかどうかだけだ。

    これは「体験」があるだけで
    全てに意味はないということでしょうか。

    思考を眺めていると
    何かを見たり聞いたりした瞬間
    すごいスピードで連想していくのがわかります。

    あらゆる事を疑ってみなさいと
    自分さんに教えて頂いて
    真実味のある思考も、本当にそうなのかな?と
    疑うようにしています。

    疑ってみると固かった思考が
    少し柔らかくなる感じがします。
    ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      なつきさん

      その通り。そこに起きたことだけが絶対的な事実であり、それはあなただけに起こったもの、つまり「体験」があなたなのだよ。

      逆にあなたに質問しよう。あなたはなぜ生まれて、なぜそこにいるのだろう? その理由や意味は見つからないはずだ。「ただそのようになっているだけ」としか答えようがない。

      全てに意味はないのだよ。意味を求めるから不幸が起こる。なぜ不幸が起こるかといえば、すべての物事に求め得られる意味など、ないからだ。すべてに意味はなかったのだよ。

      意味とはマインドが勝手に作り上げたもの。お金をたくさん持ったら幸せ、恋人ができたら幸せ、ゆえに「失ったら不幸」がつきまとう。意味など最初からないのだから、それを持つ時点ですでに不幸であるといえる。

      それが釈迦のいう「すべては苦」ということの真意となる。

      思考は思考することによりその存在がある。だから思考を止めようとか、思考を捨てようなどと思考してはならないよ。

      思考に支配されないためには、思考そのものを離れた位置から眺めることだ。やがて「本当の自分」を見つけることができるだろう。

      世界とは夢の中であり、心の中であり、あなたのためにあり、一体なぜ理不尽や苦悩を感じる必要があったのだろうと、大きな気づきが起こるはずだ。

  13. なつき より:

    自分さん、こんにちは。
    いつもありがとうございます。

    >思考は思考することによりその存在がある。だから思考を止めようとか、思考を捨てようなどと思考してはならないよ。

    ノートにいろんな事を書き出す事で
    思考も減るのかなと思ったりしていました。

    自分に湧き起こる思考が
    全てではありませんが
    この思考がなければ楽なのにと
    思うパターンがあるので
    そんな思考を捨てたいと
    思考していたと思います。

    思考を離れた位置から眺めることが
    大切なんですね。

    >思考は思考することによりその存在がある。

    これはどんなに好まない思考だとしても
    存在価値を認めてあげるということでしょうか。

    自分の思考を嫌ったりしていたので
    ふと思いました。

    • -自分- 涅槃 より:

      なつきさん

      先程別の方にも返した話だがね「思考されるものを思考している」のだよ。思考はあなたではない。

      浜辺に寄せる波のように、ときに激しく、ときに優しい。

      だがあなたは波ではない。静かに眺めているだけなのだよ。

      今回の涅槃の紙は重要な理解をあなたに与えるものとなる。

  14. なつき より:

    自分さん、こんばんは。
    お返事ありがとうございます。

    思考はあなたではないと、何度もお聞きしているのに
    コメントを書き込めば、思考が自分だという視点に
    なっていて、自分でも可笑しいです。

    波はあなたではない、という自分さんの言葉が
    わかりやすくて、浜辺で静かに眺めている
    イメージが浮かんできました。

    今は波の位置にいて
    すぐのまれてしまいますが
    波と浜辺のイメージは忘れないと思います。

    今回の涅槃の紙もゆっくり読み返しています。
    自分さん、ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      なつきさん

      大事なのは自分自身であることだ。外に意識を引っ張られないように注意しなさい。すべて「私が体験していること」だよ。体験させられているのではない。

  15. なつき より:

    自分さん、こんにちは。

    「私が体験していること」を
    覚えておきます。
    ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      なつきさん

      こちらこそありがとう。あなたの出来事は私のことなのだ。あなたが何をせずとも世界がまわるように、私が何をせずともあなたは学ぼうと動き出している。それは私の体験なのだよ。

      あなたがすべてを逆転させるとき、人生のあらゆる謎が解決に向かうだろう。

  16. なつき より:

    自分さん

    ありがとうございます。

コメント・質疑応答

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