私たちとはそもそも何なのか(3)

人間を苦しみから解き放ち、正しいものとして完成させるには「共同体としての活動」という境地に到達することにある。まずはその事前知識として、人間世界の「悪」について話を進めて行くことにしよう。

1.すべては同時に動いている

まず理解しておくべきは、繰り返し述べているように、人間は頭のなかに社会という世界を作り出しているにすぎないということだ。それゆえに「自分」という分離された存在を生きていると思い込んでいる。だが頭のなかの世界を取っ払えば「ひとつの巨大なエネルギー」だけが動いている様子だけが残る。

つまり1本の木が生息しているとき、それはその木が努力をして生きているのではなく、日光や雨、土といった全体があるから、木は結果として「そこにある」のだ。

何億という人々、赤ん坊から老人、男や女たちが、毎朝あなたと同じように目覚める。この事実にいったい何の意味があるのだろう?「意味」などないのだ。朝太陽が昇ることも、花が開くことも、すべてが絡みったひとつの現象なのであり、その現象のなかに個人という錯覚がある。

だが人間はこの「無・意味」をそのまま受け入れられず、その拒絶こそが人間という構造を生み出す発端となっている。あるのは「意味付け」という板挟みにされた心の葛藤だけであり、その葛藤はDNAに積み上げられて子孫に引き継がれていく。

2.引き継がれるもの

よくいわれる「親からの遺伝」として継がれるものは肉体的なものと同時に、精神の情報も含まれる。ヘミングウェイやウィトゲンシュタインは自殺の多い家系に生まれたといわれているが、その時々の事情はどうであれ、気を許すと自殺という手段が誘発されてしてしまうのは、無意識的なものであるといえる。

つまり無意識を克服しなければ彼らの場合は死を選択してしまう。実際ヘミングウェイは自ら命を絶ち、ウィトゲンシュタインは自殺衝動との葛藤について度々日記に綴っている。

これは私たちも同じである。無意識に流される限り、良かれ悪かれ、祖先の「癖」のままに生きることになる。恨みつらみであったり、虚しさであったり、これまで人類が抱えてDNAに刻み込んできたネガティブな様子を、ここまでまた再現することになる。

3.何があなたを動かしているのか

たまに自分でも認めたくないような「酷い考え」が浮かんだりすることはないかな。たとえば大事にするべきものなのに破壊したくなるだとかね。ケースは様々だが、それは「あなたの感情ではない」のだ。だがその感情のままに動けば、それはあなたに責任があるだけのことだ。それは無意識であるからだ。

人間が影響を受ける無意識の傾向は、時代の変化とともに変わる。平和な時代が続けば、そこで生まれてくる子供達も温和な性質を備えて生まれてくる。だが「無意識的である」というのは外部への反応に生きているということであり、それは望ましい無意識が「たまたま」引き出されているだけにすぎない。

小さなスパンでみれば日頃の生活もそうだ。清らかな暮らしを送っていれば、以前まで腹を立てていたようなことも気にならなくなる。以前の職場では辛い思いをしていたが、いまの職場では同じことを任されても前向きになっていたりする。

このように無意識の出方は環境に左右されるということだ。環境が良ければあなたもグッドになる。だが先のとおり外部への反応にすぎず、どれだけ良かろうとも環境への依存でしかない。心が振り回されていることに変わりはない。ゆえに精神の起伏の激しい日々となる。

4.無意識という罪

ある場所にいけばみんながピリピリしている。誰かがそうであるのをみて、無意識的に自分のなかでもその感情が再現される。そうして「自分はピリピリしている」と思い込む。すべてに苛立ちを覚え、腹が立っている。だがそれは無意識を許したからであり、あなたがそうであるわけではない。

相手の言動にカチンときて、怒りや憎しみが心の底から沸き上がってくるときもそうだ。それはいったいどこから沸き上がってきたというのだろう? 相手の言動に反応するように感情はやってきたが、なぜそのように反応するように出てきたのだろうか。

そうしたことのすべてが「人間の普遍性」なのだ。繰り返すが、あなたがそうなのではない。無意識ゆえに、これまでに人類へ刻まれてきた感情が反応として沸き出るのである。

5.アイヒマン裁判

心理学者スタンレーミルグラムは人間の行動について「行動は個人の特徴ではなく状況が作るものだ」と言った。

彼は600万人のユダヤ人が犠牲となったホロコーストの最高指揮官であった、アイヒマンの裁判からそのヒントを得た。残忍な行為に加担したのは自分の暴力的な意図などではなく、当時はそれが正しいこと、やるべきことだと思い込んでいたというものだ。

イスラエルでの裁判映像はいまも残されているが、そこに映っているのは誰もが想像していた悪魔のイメージとはかけ離れた、役所員のような凡人の姿だった。この裁判から見えてきたのは、人間とは何者であるのかということを浮き彫りにするものだったのだ。

6.責任

たとえば私が愛する文筆家は戦争体験者が多くいる。強制収容所での過酷な経験を著したヴィクトールフランクルはもちろんそうだが、作家のセリーヌなんかもそうだ。彼は実際に戦地へいき、そこで人間のあまりに醜悪な姿を目の当たりにした。ここまで人間は落ちぶれるのかと、己の暗い人生は他人によって光をもたらされるはずだと抱いていた淡い期待は、木っ端微塵に砕かれた。

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