その部屋は温もりに満ちていた

だいぶ昔の話でね

当時利用していた銀行の支店が
わりと近所にできて
しかしそこのATMは一台しかなくて
順番待ちの列によく並んでいた

そんなある日のことだが
銀行の営業時間が終わって
ATMの個室だけが開いていたのだけども

入ってみれば綺麗な身なりをした
高齢のおばあさんがひとり
ATMの操作に戸惑っている様子だった

ドアの音に気づいて私を一度振り返ったが
またATM画面に向き合い
「んん?どうなってるの??」と困り果てていた

そうして再び私のほうに顔を向けて
「ねえ、振込はどうやったらいいのかな」と
操作の方法を尋ねてきた

ATMの上には無造作にお金が置かれ
その傍の財布からもお札の束が覗いていた

そんな不用心な光景に
私はいろんな想定が脳裏をよぎったわけで
ここはやはり銀行の人に
任せたほうがいいだろうと判断して

「ああ、そこのインターフォンから
銀行の人につながりますよ」と教えてあげた

「あ、これで話できるのね」
「最近はむずかしいことばかりでね」
「ちょっと待ってもらってごめんなさいね」

全然構わないですよと
そしてインターフォンがつながるまでの
ほんのわずかな時間だったが

孫と食事に行った帰りで
孫は先にタクシーで帰ったのよと
話好きな彼女の人柄が溢れていたのを覚えている

やがて銀行員がサポートにやってきて
彼女は私に礼を述べて退室していった

 

温もりを分かつもの

そうして私もATMでの用事を終えて
車に向かって歩いていたのだけども

しかしおばあさんとのやり取りのあと
ずっと胸につっかえていた違和感の正体が
なんであるのかようやくわかったんだ

たとえば
いまこれを思い出しながら書いているが
彼女はもうこの世にいないだろう

もしかすると
短いながらも私と共有したあの時間
あの狭い部屋のなかで偶然に一緒にいた私のことを

そしてドアの音を聞いて最初に私をみたとき
「ああよかった」とほっと感じられた安堵を
彼女はあれからも思い出していたかもしれない

ところが私は自分のことばかりを考えていた

彼女の露わな不用心さを前に
いろんなことが瞬時に頭を巡っていた

まず彼女が本当はどんな人なのかわからないし
もしかすると個人的に助けたその後に
なんらかの濡れ衣を着せられるかもしれない

しかも密室のATMゆえそこらにカメラがあり
たとえそれが状況証拠になり得るにしても
私が彼女と二人きりでいることは
銀行の外で彼女に何かがあったとしたら
恰好の裏付けとなってしまうだろう

そんな憶測はなにより当時の自分の毎日が
不安定な状況だったからであり
ただでさえトラブル続きの人生なかで
どんな小さな問題も起きてほしくなかったからだ

だけどもなんだろうか

おばあさんにした私の態度、私の造られた表情

それはたしかに
ごく世間一般な常識的な身の振りではあったけども
だがそうして
お互いにそれ以上は歩み寄れない線を引いたとき

それはまさに私がこの世間から
これ以上入ってくるなと思い知らされている
どこか不寛容な冷たさを
結局私自らがそうしていたのであって

つまりおばあさんを
線の向こう側に隔離した己の考え方こそが
実はそのまま己に返ってきているのだという困惑

まさにその困惑が違和感の正体だった

 

下される審判

もちろん同じような状況に
たとえば私ではなく友人知人がいるなら
そうして万が一のことも考えるように
忠告していただろうし

あなたがそんな相談をしてきたら
その場の直の空気を知ることのできない私は
やはりそのように答えているかもしれない

だが少なくとも
私とおばあさんの二人のあの”部屋”に
そのような詮索は無用だったと
すぐに後悔をした

彼女はもう先のみえた余生のなかで
一期一会の瞬間を
大切にしたかったのではないか

ATMの操作なんて
この世で生命の温もりを感じるための
単なるきっかけにすぎなかったのではないのか

その後悔は懺悔そのものだった

私は罪をおかした
それはもちろん強盗したとか
彼女を付け狙って何かをしたとか
そんなことじゃない

だが私にしてみればもっと重い罪

それは彼女が
裸で私に向き合っていたのに
己は鉄の鎧で我が身を取り囲んでいたということだ

当時の私はなにかを見失い続けていた
見失っているがゆえに
見失っているものが何なのかさえわからなかった

その罪の重さは
貧しいながらも一緒に暮らしていた妻に
そのことを話したときに明らかだった

「色々考えてインターフォンを指差した」と語る私に
そしてそれは君を守るためでもあったという”含み”を
いみじくも持たせて語る私に

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