「足るを知る」を知る

すでに持ってるもので満足するという話を
先日したね

つまり老子がいうところの
「足るを知る」だけども

しかしやはりそういわれても
いま持っているものや
いまそばにあるものは平凡で退屈で

だからこそ持っていないものばかりに
目が向いてしまうだろう

なにを買っても
なにをはじめても
すぐに飽きてしまうし

人々の目を奪う広告を打つことが
この消費社会の基本にあるゆえ
油断したらすぐに
「ここにないもの」の虜にされてしまう

恋人やパートナーに対してもそうだね

はじめは燃え上がるような恋で
愛さえあれば他になにもいらない」なんて
奇跡のような力があったのに

いまや「愛だけじゃ無理」とか
「ようやく現実に目が覚めた」とか
そんなことを言いながら
さらに”眠り”が深くなってる

当然「いまあるもので満足せよ」と言われても
もはや拷問でしかないだろう

では飽きてうんざりしてる相手や毎日に
“耐え続ける”だけが人生の喜びなのか?
老子はそんなことを言ったのだろうか

もちろんそうじゃない

とはいえ
「ここにないもの」は魅力的にみえて
「ここにあるもの」はやはり色褪せてる

たしかにそうだろうし
それを無理に否定しろというわけではない

むしろここで
冷静になってみつめるべきは

どうして
「ここにないもの」は魅力的にみえているのか
ということだ

 

発光

かつてあなたは
いまそばにいる人に奇跡をみていた

愛さえあればどんな苦労も厭わず
その人と歩んでいけるならば
どんなに過酷な運命が待っていようとも
背負っていけると確信していた

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