暖かい光に包まれて生きていく
踊ることは好きかな?
ダンスが上手いか下手かは別としてね
たとえば部屋で音楽を流して
そのリズムに合わせて
体を委ねてみたことは何度かあるかもしれない
一般にいわれる「ダンスがうまい」とは
客観的な評価なのであって
他者の視点で自分を捉えたものだ
しかし本来「踊る」というのは
自らの視点で「流れるもの」と
ひとつになることにある
真のダンサーは”それゆえ”に
神なるものをそこに発現させているわけで
芸術的な美の正体とはまさにこのことにある
踊るということ
ところで音楽というのは姿のみえないものだね
だから踊るというのは
姿のないものに体を委ねているわけで
それは「みえない透明の架け橋」を
信じて歩いているようなものだといえる
そうして信じるときに
なにが必要だろう?
いやむしろ
なにが不要だろう?
それは「疑う自分」であり
つまり積み上げられた過去しか
信じられない自分なんだ
だから”踊る”には
「みえるものしか信じられない自分」を
破棄することがその要件にある
これは新しい何かに挑戦するときもそうだし
誰かを深く愛しているときも
それはひとつの踊りにあるのだといえる
自分を捨て去らなければ
相手とひとつになること
たとえば本当の意味でのセックスもできないだろう
だからこそ「踊り」は
世界各地のどの民族においても
聖なる儀礼として採り入れられてきた
アフリカであれアマゾンであれ
どこでも踊りがある
たとえば日本なら盆踊りが代表的だけども
お盆という生者と死者が交わる日に
生者の側が死者と交流するための行事となる
これは以前も話したようにケルト民族の
サウィン祭(ハロウィン)も同じ根拠にあり
一年の収穫を終えてまたゼロから始まるという
その境目をこの世とあの世がつながる祭日とした
また日本なら厄除祈願なんかで
地元の神社に行ったりするが
そのとき巫女が神楽を舞っているのを
みたことがあるかもしれない
神楽の起源をみれば日本神話の
アメノウズメ(踊りの女神)にたどり着く
芸能の神様としても有名だね
神話によれば
太陽の神であるアマテラスがその姿を
隠してしまったとき
彼女は天岩戸(岩の洞窟)で踊った
すると八百万の神々が
愉快になって盛大な笑い声があがり
その楽しさにつられてアマテラスは再び
顔をみせたというものだ
同じパターンの伝承は
ネイティブアメリカンにもアボリジニにも
そして聖書にも仏典にもあり
ギリシア神話やそれ以前の神話にもある
西洋〜東洋については
いつも話しているように
時代を超えて伝播していったもの
たとえば前にコメント欄で話したけども
オルフェウスが冥界に落ちた妻を救う話は
イザナギがイザナミを黄泉に救いにいく話となった
また、長くなるので今回は詳しくは触れないが
イエスが病死したラザロを蘇らせた話と
禅の「死にながら生きること」は同じことを示している
だから歴史的順序でいえば
その”表現”を禅がアレンジしたことになるけども
大事なのは表現の部分ではなく
それらがなにを伝えようとしているのかを
読み取ることにある
たしかに”表現”こそが
人間世界の豊かさであり創造であるけども
(つまり「形あるこの世」のこと)
しかしそうした表現のみに囚われては
大事なものを逃すことになる
人々が主張をぶつけあって議論したり
損得に振り回されたり
また人生に苦悩したりするのは
“表現部分”においてであり
それは本当にここにあるものから外れているからなんだ
この世とあの世がひとつになるとき
話を戻すけども
つまり「踊り」というのは
音楽にのみ体を委ねることではない
音楽がなくても「踊ること」ができるからだ
むしろそうして
みえないものとダンスしながら生きることこそ
あなたは本当に生きているといえる
Notes あるがまま, いまここ, ワンネス, 世界を変える, 幸せになる, 感謝, 楽しむ, 永遠, 生き方, 願望実現
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