「私は在る」瞑想
古代インドから
現代ならロシアの神秘家まで
愛用されてきたメソッドだ
・常に「私は在る」と想起する
この瞑想に慣れてくればわかるが
あなたが存在するとき世界は消える
そして世界が存在するとき
あなたは消えている
つまり「自分」か「世界」か
そのどちらかが出現しているのだ
自分と世界が同時に存在することはない
これはいつもの意識の向きの話と同じ
意識が外に向いておれば
世界の細かなことにあなたは囚われる
ほとんどの人がこの状態
内に向けば世界はただの夢となる
夢があなたを取り巻いてる様子が
はっきりとわかる
この状態を覚醒という
この瞑想は習慣付くまでが難しい
すぐに外側に引っ張られる
だがある程度やっていると
意識が外に向いたときに
視界のピントが外れていくことが
わかるようになる
自分に向いているときは
モヤが落ちたように
スッキリとクリアだが
外に向いてしまうと
途端に滲みぼやけだす
覚えておきなさい
「自分」か「世界」かしかない
手にしたライトで
こちらを照らしているか
あちらを照らしているか
それだけのことだ
「私が在る」の状態で出かけると
街は無意識だということがよくわかる
人々はみんな夢の中にいる
例えば何の疑いもなく
お金を出して物と交換している
「何のルールなのだろう?
プログラムされたロボットのようだ」
そう見えるようになる
人は眠りの中にいる
世界はそこにあるが
人々はそれぞれの夢の中で生きている
あなたも同じ夢を見ていた
だが自分自身を存在させるとき
夢を見ていた、ということに気付き
その夢の中で目覚めてしまう
夢から醒めるということは
あなたの観念が崩壊することを意味する
何も悩む必要などなかったし
あなたを制限するものなど
ありもしなかったのだとわかる
深い納得の末にあなたは言うだろう
「なんてこった、すべて夢だった」
あなたは完全に自由となる
是非目覚めを体感してほしい
コツだが
歩いているときも
食べているときも
「私は在る」と想起する
言葉の連呼でもいいが
自分が存在する感じを保つことが大事だ
自分に意識を向け続ける
それと同時に
「未来も過去もなく、
いまがここにあるだけだ」と続ける
意識が外れそうなときは
身体の隅々に意識を向けるようにする
そうして内、外と
意識の移動を何度も経験していると
先に書いたように
視界のピント移動がわかるようになる
そうなれば定着までは早い
ただの癖だったのだと理解できるからだ
私の中に光を灯しなさい
その世界が
ただの夢だとわかる
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言葉を用いるのは得意ではないのですが
全身に意識を巡らせるとパワーがみなぎってきます。
例えるならアニメやゲームのキャラクターが全身からオーラを放っているような状態になります。
ONEPOINTさん
言葉は架け橋にしかならない
あなたは橋を飛び越えられるのだ
そのエネルギーを絶やさないようにしなさい
あなたがその状態に在るとき
あなたを中心に絡み合っている
マトリクス(子宮)が大きく変容する
いずれ目に見えて物事が変わり出すだろう
すでに動いている
はじめまして。
いつも楽しく?拝見させていただいてます。
私は在ると、やっていると、いつの間にか仕事の事や何かしら思考に飲み込まれてます。
思考も外の世界という認識で良いのでしょうか?
タッくんさん
はじめまして
仕事というのは
意識が外側に向いて成り立つものだ
だから「私が在る」状態で
仕事をするのは難しい
最初は難しい
内側に意識を向けて
同時に外側の行為をする
歩くことや眺める程度ならば
簡単に入ることができるが
仕事は思考を使う
だからすぐに引っ張られてしまう
思考は外側のものというよりも
意識が外に向いたときに
起こる妄想のことだ
常に未来か、過去
どちらを妄想している
逆にこう考えてみなさい
仕事について
未来や過去を持ち込まずにやってみる
「このペースなら○○時には終わりそうだ」
「これならお客さんも納得してくれるかな」
「またこの成績か、これじゃまずい」
このようなことをやめ
ただ目の前のことだけに没頭するのだよ
あなたが飲み込まれるときとは
そこにないものを見ているからに他ならない
いつもいまに在りなさい
仕事で疲れることもなくなる
いつも、学ばせて頂いております。
今回の記事も全くおっしゃる通りと思います。
その上で、『どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが世界』か感じたとき、自分と世界のボーダーラインがどこまでも拡がり、またどこまでも狭まり『自分=世界』という認識に僕は至りました。
よっしーさん
そう、ボーダーラインが消滅するとき、
つまり自他対立のジンテーゼが起こると同時に
その背景が浮かび上がる
それがワンネスだ
私たちは世界に縛られる
だが世界が起きているということ自体が
概念であることに気付かなければならない
ではその概念はどこで?
もちろん、あなたの見ている前だ
「私は在る」と「過去も未来もなく、今がここにあるだけ」を唱えながら、1時間半程、山を走ってきました。
ある瞬間に、ずっとわからなかった「他者はいない」がわかりました。
過去も未来もないのだから、他者もいない。
全てイメージ。
煙鳥さん
>過去も未来もないのだから、他者もいない。
その通り
つまり「いま」に入ったのだ
その境地に立つとき
すべてが「平面的な映像」となる
距離感も境界線もなく
連続的な時間の流れもない
漠然とした一枚絵だけが
そこにただ在り
あなたは眺める者となる
最初はそれを維持するのは難しい
すぐに時間の世界へ呼び戻される
あなたがその方法で「いま」を垣間見たなら
それが合っているということだ
歩いていても
家事をしていても
ただひたすら「過去も未来もない」と
念じ続けるだけでいい
やがて「いま」に在ることが
条件反射として起こるようになる
気のせいかもしれないのですが、
最近、意識的でいるときに
よく相手の言おうとしてることや
して欲しいことなどが分かる気がします。
そのときついこちらが
その相手の言おうとしてることを
言ってしまいます。
ただでさえ自分が話すことが
多いのに…(苦)
気のせいでしょうけど
何度もありました。
悠久さん
気のせいではないよ
あなたが他者と意識を共にするとき
あらゆる物事がシンクロする
その感覚を掴みなさい
あなたの世界は
あなただけが救えるのだよ
涅槃さま
スポットライトの例え
わかりやすかったです。ありがとうございました。
「私は在る 瞑想」で検索して初めてこちらのHPにたどり着きました。
こちらの記事を呼んでますます核心を深めました。
改めて御礼申し上げます。
モルさん
そう「自分」か「世界」かしかない
ライトでどちらを照らしているかだけ
本書でよく伝えているがね、
これは「癖」なのだよ
我々はあらゆる物事に対し
思考的な解釈をする
それは人間の特性であり
創造性の引き金となるのだが
あまりに外に囚われるあまり
ライトは外側を照らしたままで
内側に戻ってこない
結果本来備えている創造性が
闇にネガティブを浮かべてしまう
だから内側に向けることを
習慣付けて癖を正すことだ
創造性は前向きに作用し
あなたは幸福に満ちあふれるようになる
すべては心の創造の中にある
あなたの観るものすべて
あなたの想うことすべて
つまりあなたは
あなたの中で生きているのだ
ゆえに「自分」も「世界」も
実はどちらも心の中であり
すべてが「あなた」なのだよ
>御礼申し上げます。
こちらこそありがとう
私はあなたの中で生きているのだ
このように”存在を与えること”が
無限の創造性を意味するところとなる
数ある涅槃の書の瞑想の中から、ひとつ持って帰るとすると、この「私はある」の瞑想だな。
法然親鸞の念仏や日蓮の題目ではないが、実践においてはシンプルなものでないと、持続しない。
理屈に関しては、もはや、完全に「理解した」のだが、かといって「外側に意識が向かう癖」が直る訳ではない。
生活していく上では専修念仏みたいな単純なメソッドがどうしても必要になる。私はこれだけでいいし、これ以上のものは不要かもしれない。
最近、全てにおいて、「言葉をなぞっているだけ」な感じがして、白けてしまう。
確かに、正月だ。しかしそれも「正月」と言うシニフィアンの連鎖から生じる幻覚だと思うと、真面目に取り組む気がしなくなる。
毎年毎年、餅を食って、やー正月だねーーと言うのも、いい加減飽きた。
まさに過去の繰り返し。
ファック正月!
会員になって1-2週間でしょうか?心に響く記事と自分さんと会員皆様のコメントを読み、頭での理解だけでなく体得する術を楽しみながら模索していました。よくわからないところもあまり追求せず放っておいていました。いつか解るかな?とゆるーくいました。
ところがそんなユルい時に突然検診にて 左乳房にシコリが指摘され心が大きく乱されました。
「心がけていた内側に意識を向ける」「「それ」の視点から自分の行動を眺める」「全体を意識する(全体に溶け込む)」がすぐ恐怖にかられた思考に飲み込まれてしまうようになってしまいました。「私は在る」と心の中で言い続けても次第に「ただ言っている」だけになり恐怖の思考の音にかき消されてしまうのです。
「私は在る」と長いこと意識を保てないのです。ふと緩んだ時に恐怖の思考に持っていかれるのです。
反面「ああ恐怖にかられてるなぁ」と思っている自分もいて、このまま騒がせて放っておき眺めておきましょうと言う気分にもなれるのですが(おそらく涅槃の書を読んでいたおかげかと)、しばらくして気が緩んだ時にどっと恐怖の思考に飲み込まれてしまうのです。その繰り返しです。
過去に問題を問題と意識するから問題となるので「問題自体を忘れる」という記事を読んだことがあります。
「問題を忘れる、意識すらしない」境地に立つには自分を支配しなくてはいけない、常に自分を見つめなくてはいけないと書かれてありました。
「問題は所詮私が作りあげているんだよなぁ」「私の思考があれこれ想像しているだけなんだから」とは理解できてはいるのです幻想だから忘れてしまえ!と頭は理解していても心がついていっておらず、忘れたフリになってしまっています。
自分を支配しようと「私は在る」と唱え続けているのですが、胸や体の硬直感がさらに増える感じがします。
ふと「私は在る」の私って誰だろうと思いました。
これまでそう信じてきた無意識の自分、つまり思考?それとも「それ」の視点に立つ死ぬことのない自分?
わかっているようでわかっていないのかもしれません。
アドバイスいただけたらと思います。
suisenさん
少し長くなるけども、じっくり話していこう。
>ふと「私は在る」の私って誰だろうと思いました。これまでそう信じてきた無意識の自分、つまり思考?それとも「それ」の視点に立つ死ぬことのない自分?
すべては「いま」展開されていることを知ることだ。それを知っているだけでいいのだよ。
「さっきの記憶」もそれは「いま」思い出しているのであり、抱えている問題もそれは「いまここにあるもの」だ。
「いま」という領域はすべてが過ぎ去る幻想の場として永遠に静止している。あなたがいまそこで何かに触れてもそれは過ぎ去った世界であり、つまり「いま」は「過ぎていくいま」を眺め続けている。
ゆえに「いま」はあなた自身を超えている。その肉体も思考や感情も、もちろん様々な問題もそうだ。そこではなにも問題にならないし、また浮かべたい幻想を自在にみることもできる。
たとえば「病気を患うこと」について、私はいくらでもあなたに話をすることができる。だけどもあなたが「いま」を逃していると、私の話を正しく理解することができない。
それは過去をより強固なものにし、そして未来への希望だけを求めてしまう。ますます「いま」から離れてしまう。
だからまずはここまでの話を踏み台にして「未来と過去」に縛られている自分に気づき、そして「いま」へ降り立とうとする姿勢を持つことだ。
>「問題自体を忘れる」という記事を読んだことがあります。
そう。だがそれは忘れようとして忘れるのではなく「そんなことは知らない」という完全に消滅した状態にあれということにある。
あなたがいま忘れていることは存在することができない。悩むほどそれはそこにあり続ける。あなたの見解の通り己がすべてを作り出している。だけども知識としてそれを覚えているだけではだめだ。
だから固着した観念を崩していく努力が必要となる。
一日のあいだ、ただ呆然と過ごすのではなく、身に起こることをずっと観察していてごらん。
家族がドアを開けて入ってくる瞬間や、蛇口をひねろうと自分の手が伸びていく様子、水が音とともに流れ出てくる様子、不意に外から聞こえてくるバイクの走り去る音、そうした観察を続けていると、この世の「神秘」に気づいてくるようになる。
当たり前と思っていたことが、実に摩訶不思議なことだったとわかる。いわゆる「死の観点」で生を眺めるようになる。
そうして観察を続けていると自分は1mmも動いておらず、ただ世界が動き続けているだけなのだということをだんだん知るようになる。体の痛みも痒みも、重さも暑さも、それは自分とはまったく無関係であり、ただそれらを「見ている」だけなのだと悟りはじめる。
その「見ている何か」は向きも大きさもない。首を左右に降ってもそれは動かず、またそれはどこまでも広がっている。
さらにその観察は「いま」にだけ行えることに気づくだろう。つまりあなたが世界の真実をみるとき、それは「いま」ゆえに為されるのだ。
さていいかい、
あなたは死なない。私もそうだ。最初から「生まれてきてなどいない」からだ。人間の生死とは思考上の概念にすぎず、私たちは永遠に湧き続けている生命の水のなかにいる。
だけどもその意味は言葉として伝えられるよりも、自らでそれに気づいていかなくてはならない。
人生は色々な恐怖と直面するけども、それは心を鍛えて乗り越えるのではなく、恐怖という発想すら浮かばないことが「克服」なのであり、そしてそれは自分が「何者であるのかを知っている」ということにあるのだよ。
今回の検診は真理に向き合うひとつの機会として、あなた自身が自分にイメージとして与えたものだ。だから結果はどうあれまずは受け入れて、そしてこの世とはなんであるのかをよく観察していくといい。
人生におけるすべての登場人物やすべての物事が「そこに存在していること」だけがその存在の意味であったのだと知り、そしてそれらはあなた自身であり、自分が幸せであるには世界が幸せでなければならないということを理解することだ。
その心がけがすべてを変える。
質問出してすぐお返事をいただきまして大変温かい気持ちになりました。
何度も何度も読みました。言葉で理解できるものではないのでしょう。自分が腑に落ちなくてはいけないのでしょう。正直理解には程遠いです。
「いま」を理解しないと「病気であること」は理解できない。考えれば考えるほどわかりません。
「身に起こること」観察しています。まだ4時間くらいですが…… すぐ解ることではないのでしょうが、ただ事は勝手に起こっては消えるなぁとしか感じ取れません。「固着した観念」とは?
「死の観点から見る」「この世のしくみの神秘」「真理」????と次から次へと頭が空まわりしているのがわかります。
頭で理解できるものではないのでしょう。聞いてすぐ解るものではないのかもしれません。
それでももう少し説明していただけないかと思います。
よろしくお願いします。
送信した後「どうせわかりません」的にふてくされてシャワーに入りながら気がついた事が2点あります。
1 それまで数時間必死に「いま起こっている事を観察」していたときは「何か掴もう」としてしまい、もどかしさだけ募っていました。
体を洗いながら「今を観察するっていったって「いま」って一瞬ですぐ消えてしまうのにどうやって観察するの?」と思いながら
「一瞬なんだ」
と思いました。当たり前ですがすぐ過ぎ去る一瞬の繰り返しなんだと思いました。
よく言われる「今を大切に」というのはわかっていましたが、「だからといっていつも一瞬ばかり追えない!」と思ってきましたが、「肉体の死」が目の前にチラついた今初めてああこういう事なのかな?と思いました。
2 気が緩むと自分の体に優しくなかった自分を責め続け、または将来への妄想でいっぱいになり苦しくなり、ああ「今 今」と無理矢理戻っていました。
面倒だなぁと思いつつ、ふと「面倒だけどいまというエリアは妄想に囚われるよりよっぽど安全なエリアだ」と思いました。
当たり前ですね。
suisenさん
記されている言葉そのものの意味はあまり深く考えなくてよい。先の返信は、あなたがそのように返してくるだろうということを見越して書いたものだ。
言葉というのは、家族に「林檎を取ってほしい」といわれて、あなたはそこにある赤く丸い果物を手渡すための指示書のようなものだ。それは林檎そのものではないし、そして「林檎」も言葉ゆえに、渡したそれは林檎でもない。
それが日本語であれ英語であれ、古代の暗号であれ、または宇宙語であれ、物質の変化=全体の変化についてを単に人間の世界だけで言葉として起きられられているにすぎない。本書もそうであるし聖書も仏典も、そこに記されているものはその「向こう」に触れさせるための架け橋でしかない。ゆえに「生死は概念」であるのだ。
たとえば私たちは日常的に言葉を使うけども、それは話言葉だけではない。心で思うこと、感情や思考もすべて言葉であるし、また肉体的な感覚、重いとか熱いとかいったものも、すべて言葉として受け取っている。
さらに「病気になった」も「お金がない」もすべて言葉を読んでいるものにすぎず、つまり言葉がこの世からなくなれば、一切の問題が消滅するとともに「人間が生きている」ということでさえもフッと消え去る。
それはみんな一斉に死ぬということではない。「死ぬ」すらも言葉であるからだ。言葉がなくなった世界というのは「生死そのものがなくなる」ということだ。あなたは生まれてもきていないし、死ぬこともない。またあなたそのものが存在しない。そこに残るのは漠然とした「ひとつ」だけとなる。それが先に比喩した「生命の水」にあたる。
あなたはこれまでの習慣から言葉でものを探ろうとしてしまうが、先に私が返信した内容は言葉を超えた世界に到達させるものであり、その「なにもない」を望める立ち位置が、言葉の世界でいう「死の観点」となる。スピリチュアルな問答で「生きながら死ぬ」なんていわれるのはそのこととなる。
>だけどもあなたが「いま」を逃していると、私の話を正しく理解することができない。
このように私が言ったのは、「いま」がその死の観点に立てる唯一の場所であり、それを逃していると、あなたは言葉に囚われてしまうからである。
だがあなたはシャワーを浴びながら徐々にそのことに向かいだした。良いことだ。言葉に慣れ親しんでしまっている=過去と未来に生きているから、「いま」にあるというのは、そのいつもの状態に磁力のように引き寄せられる慣習をぐっとこらえる努力が必要となる。
あなたが「面倒だ」というのはその労力のことだ。先の返信で私が「固着した観念を崩していく努力が必要となる。」といったのはそのことだよ。
だから私の言った通りに実際にやってみることだ。ならば私の書いている意味が全部「そのままのこと」であるとわかる。それは言葉として理解しようとすることよりも、確実で早いだろう。
そうして言葉を不要とする世界へ身を沈めていきなさい。そのための瞑想なのだ。ならばあなたはすべての恐れや不安を克服することができる。
>「面倒だけどいまというエリアは妄想に囚われるよりよっぽど安全なエリアだ」と思いました。
良いね、素質がある。
やがてどんなにネガティブな出来事が起きたとしても、それは単に言葉の読み方であることを知るようになるだろう。つまりあなたは現実、そして「生という拘束」から解放される。
すぐご返答いただきありがとうございました。落ち着かない日々なので一層心に響きます。
シャワーを浴びたとき感じた自分の中の最大の「気づき」は、「いま」は妄想という猛獣に襲われない唯一のセーフゾーン。これまで通常の引力に簡単に戻されてしまって簡単に過去や未来に心が飛んでいき考え事ばかりしてしまうので相当の労力を使って「いまに在る」努力をしないと「いま」にいられず長続きしなかったのですが、このような状況になって初めて今まで苦だった労力を使ってまでも「いま」にいた方が気が楽という気分になりました。
過去や未来に囚われた妄想の恐怖の方が労力より強大だったのです。ここまでこないと「いま」を維持できないなんていかに今まで「心ここにあらず」で生きてきたのかと思います。うれしいやら呆れるやら。
おっしゃる通りこの事態は「ギフト」なのかもしれません。
実際この様に思えるようになったので意外とうろたえていません。妄想がよぎったら「いま」へ逃亡しているので。
いただいた御返事最初さらりと読んで、とりあえず体感してみようと思い、昨日は「いま」を感じる努力をしました。最初はひたすら感じていましたが、たまに感じるというより「溺れる」ように深く今を感じる瞬間がありました。「なにかもっと奥にあるような」感じです。いつもではありませんが。
それがとても深くていいのです。(自分で書いていて意味不明です) もっといたいと思うと妄想がよぎるのでゲームオーバー。負け続けです。
まだまだ「いま」に居続けるのは労力が必要です。
昨日「いま」にいる努力をして思ったこと。
この数週間「涅槃の書」を読みまくっていたので、「それ」の存在をを理解していましたし、気にすれば感じる事もできました。「さぁやるぞ」モードじゃないとあっという間に元どおりでしたが。
昨日は「内側とか「それ」とかも無視して自分の中、外をひたすら見てきました。感じるのをみる感じでしょうか?どっちがみているのか考えると苦しくなるのでただ「見る」に専念しました。
ふと「ただ見ている」その瞬間はどうやら思考が入れない様なので、必然的に「それ」の視点なのかなと思いました。ただその瞬間は一瞬なので目を開くと思考にすぐ持っていかれるのでよくわからなくなりますが、どうやら深く「いま」にいる時のみ、思考が入れないようだなと思う時が数回ありました。
意識を保つの難しいです。
夜になってコメントまた読み返したら、最初思った認識と違う思いが出てきて混乱したので寝ました。朝起きて自分なりにまとめてみたら頭が整理されました。
どんな出来事も言葉で認識すると意識され記憶に残ってしまいます。そうやるよう生きてきたのだからどうしようもないのですが、今の私は言葉に囚われず、いま起こる出来事を眺め流す最大の「努力」に専念したいと思います。
間違っていたらご指摘ください。
またアップデートします。ありがとうございました。
suisenさん
深い領域に気づくようになってきているね、とても良いことだ。
>どんな出来事も言葉で認識すると意識され記憶に残ってしまいます。
そう言葉は必ず失敗する。私はいつも書きながらそう感じている。言葉ゆえにこの世界があり、つまり一枚のガラスにヒビが入ったように、「ひとつ」が言葉という輪郭に刻まれて私たちは物事が認識できるからだ。
だから何を知ろうとしても伝えようとしても、どのような手段も「ひとつ」には及ばない。それは「ここにある」というに、そのトータルを表現することはできない。
だがいま夜であるならば、夜を感じることができる。ではこの「夜」とはなんだろう?
物理的な解釈(言葉の解釈)をすれば太陽が地球の反対側にあるといったことになるけども、この「夜を感じる」というのは、太陽の不在のことではなく、ここにある「これ」を感じているということだ。
つまり「感じること」は言葉を超えることができる。
ゆえに「これ」を感じること、「これ」にいつも触れていることだ。それが現実世界の突破口となる。
昼ならば昼の光景に包まれること、昼を感じること、すなわち「これ」と共にあること。公園を歩くとき緑や空気に包まれていること、「これ」と共にあることだ。
夜に包まれているとき、その包まれている感覚を深く澄ませるほど、海のなかに沈んでいるような気分になる。そのとき空間とは決して空虚なものではないことを知る。物も地面も大気でさえも、すべてが呼吸し、すべてが躍動している。すべてに生命がみなぎっているとわかる。
だから一人で部屋で過ごしていても決して一人ではないし、どんなに孤立奮闘していると思っていても、いつもすべてに支えられているのだよ。
「これ」を感じること。
そこにあるのはコップでもティッシュでも壁の絵でもない。それら言葉の輪郭を浮かべているひとつの大きな何ががいつもある。それは安らぎに満ちており、そしていつもここにあるゆえに時間も存在しない。時間とは「これ」のなかで言葉が入れ替わっているだけにすぎない。
いまここにある「これ」が神とよばれるものであり、そしてそれこそがあなたの本当の姿である。なぜならあなたはいつもそこにいるからだ。
ゆえに「これ」を感じ、「これ」に祈り、「これ」を愛することだ。
ならばこれまで迷妄的に追い求めていた幸せを放棄し、最初からハッピーエンド後のエンドロールのなかを生きていたことを知るだろう。