使い捨てロボットが意志をもつとき-1

前回連載した「3の法則」だが、その最後にあげた「宇宙・事実世界・想像世界」については、ヘレンケラーと家庭教師サリヴァンとのあの有名な話に置きかえると理解しやすいかもしれない。

ヘレンは2歳頃に患った髄膜炎の影響で、その後「目、耳、声」に重度の障害を負ってしまう。生活上での支障はいうまでもないが、言葉を覚えるまえに三重苦を背負ったことで、直接体験している物事と文字が結び付けられなかった。つまり彼女は、個別的な観念が存在せず、ただ「快・不快」が変化するだけのモノクロームな世界の住人だったのである。

もちろん「創造した世界」の立場から、いま私たちはこのヘレンの話を認識しているので、実際のヘレンが経験していた世界を知ることはできないが、私たちにおいての「事実世界」と「想像世界」の関わりについては、このヘレンの話をそのままアナロジーすることができる。

あるとき、サリヴァンがヘレンの手のひらに、水で濡れた指で「WATER」となぞったときに、ヘレンはその「関係性」を理解する。すると彼女は嬉しくて狂喜し、いろいろなものを叩き回って、その都度サリヴァンに、その事物に対応する文字を手のひらに書いてもらったという話である。さぞ嬉しかっただろう。

この喜びこそが、大いなる源泉から無限の可能性が流れ込んだ躍動であり、そして感謝の表明なのだ。

創造される世界とは

この話の要点は水がWATERであるということを知ったということではない。事物と名称に「関係性がある」ということを彼女が学んだということにある。

この事実以外に加えられた第三のもの、すなわち「関係性」こそが人間が生まれ持って備えている「魔法」であり、つまり記号学でいうシニフィアン(意味するもの=記号)とシニフィエ(意味されるもの=本体)が結びついたということである。

私たちはトイレのマークをみて、そこがトイレであるとわかる。またマークの色や形状から男女どちらのものであるかがわかる。だがヘレンのこの話で理解すべきなのはそのマークがなんであるかではなく、それが何かを意味しているという、その「システム」があるということ、逆にいえば、意味される何かを表現するためにマークというものが存在しているということ、「架け橋」のようなものがあるということを知ったことにある。

マークとトイレの「あいだ」にあるもの、その「繋いでいるもの」が「関係性」というものだ。関係性という「魔法」を用いることで、この世は「有意味」となる。それゆえに世界は様々な姿を私たちに見せているのである。ヘレンが理解したのはこの世界の豊かな多様性であり、しかし多様性とは己のなかでの関連付けによって見出されるということなのである。

世界が動き始めるとき

だからマークやトイレだけがあっても無意味なのだ。「事実」をどれだけ多数集めても、それだけじゃ法則にはならない。それらが結びついてはじめて現実(リアル)となるのである。

あなたの日常もそうだろう。何かを作ろうとしてホームセンターで闇雲に商品をカートに放り込んだところで、それらは何の意味もない。プランという糊付けが必要なのだ。それが無意味なものを有意味に変える。

つまり注意しなければならないのは、最初に「シニフィエ(意味されるもの)」があって、「シニフィアン(意味するもの)」が派生されるのではない。ここを間違えると、あなたは「世界のなか」に有意味を探し出そうとしてしまう。

そうではなく「何もないところ」に意味が与えられてはじめて、それはヘレンの暗闇に表象として出現するのである。シニフィアンやシニフィエという構造は、その事後に成立される単なる説明でしかないのである。

それはまたこのように置きかえることができる。

たとえばミイラのなかに動く心臓や胃や肺を接続しても、それは人間にはならない。私たち人間と何が違うのか。それは関係性という「観念の糊」で繋がれていないからだ。つまりその「魂の吹き込まれた人体」をそのまま、あなたの生きているこの現実世界そのものだとみればよい。

世界が動き出しているのは、あなたがそこに関係性(意味付け、法則、秩序、etc..)という魂を吹き込んでいるからなのである。

本当の世界ってなんのこと?

さて関係性の「ある、なし」が私たちの現実世界の構築そのものであるというわけであり、つまり人生が幸せか不幸かは己の関連付けによって決まるということだ。人生におけるストーリーの内容は、あなたが自らの意志で放つ「魔法」にかかっている。

つまり自発的にその関連付けを作り出していかなければ、覚醒以前のヘレンとあなたは何も変わらないということである。ここが重要なのだ。

つまり私たちからみて、ヘレンは三重苦の暗闇に閉じ込められていたとイメージしているだけであり、彼女にとってはそれが100パーセントの世界だったのだ。だから(もし彼女と意思の疎通ができるならば)いくら彼女に「本当の世界はこんなに素晴らしいんだよ」と伝えたところで、彼女は「信じようがない」のである。

たとえば、あなたは「落とし穴」とはなんであるかを知っている。子供同士のいたずらだったり、現実社会の罠をそのように表現されたりもするが、なんにしてもそれは悪意や捕獲などの狙いという根拠があって掘られるものだ。当然あなたはそれを回避しようとする。

だがすでに巨大な落とし穴のなかを気づかずに歩いているとしたらどうだろう。

つまり落とし穴のなかで「落とし穴についての授業」をあなたは受けていた。そんなあなたに「本当の世界はこんなに素晴らしいんだよ」と伝えたところで、あなたは理解できない。

これと同様にあなたが人生にはまり込んでいるとき、それはまさに自分が落とし穴に落ちていることに「気づいていない」様子にあるといえる。

落とし穴のなか

前にも書いたが、お金が欲しくて働きに出たとしても、働きに出ることで出費が増える。ストレスの解消もそうだが、働くために外部と関わることで様々な維持費用が必要となる。食べ物や美容もそうであるし、休日は日頃とは違うなにかをしたくなる。

つまり働いて社会のなかで得てくるお金とは、その社会で活動させられるための経費として支払われているにすぎず、お金は右から左、社会のなかでお金が回るための「パイプ」として自分は参加させられているのである。

ゆえに仕事そのものに醍醐味や楽しさをみなければ、つまりお金のためだけに働いているのであれば、労働は人生の浪費でしかない。だから共働きの奥さんなどは、逆に働きに出ない方がお金が残ることになったりもする。それは「出費させられる」ことがないからだ。働かない方が豊かで穏やかな暮らしを営めるのである。

もちろんローンなど負債の状況などにもよるがね。しかしそもそも「負債」を抱えるというシステム自体が、己を社会の歯車として「強制参加させ続けるシステム」であることに気づいていなければならない。

養育や世間体、あらゆる方面で、社会は私たちを強制参加させるためのエサをぶら下げている。厚生年金や医療保険なども表向きは国民の救済であるけども、言いかえれば「それがなければ生きていけない」のであり、つまり国家に首を掴まれ続けているということである。

人生を満たせてくれる蜘蛛の糸

このように現実世界には、隅々まで設置された「関係性」というコードが行き渡っているが、そのなかで流され続けているかぎり、サリヴァンから学ぶ以前のヘレンのように、ただ漠然とした快不快だけの世界に漂っているだけでしかないのだ。

どうして美容品が欲しいのか、どうして焼肉を食べに行きたいのか、どうして高価な商品に手を出してしまうのか。「落とし穴」にはまっている限りは、その穴の底から見上げるはるか上空の青空、つまり「現状から見出される理由」しか出てこない。

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  1. スーパーリッチ より:
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