停電のなかで

たくさんの人が集まってる建物が
急に停電になって真っ暗闇になれば
当然パニックになるだろう

目を見開いても
みえるものなどなにもない

私たちの何百万もの魂とはそれと同じで
そうして暗闇のなかに
放り込まれてるようなものでね

本当は直にみえるものはなく
それぞれの心に映る映像を頼りに暮らしている

つまり停電になった建物のなかで
周囲に感じられる人々の気配や温もりを
心に投影しているのだけども

それゆえその映像のみに執着して
その映像の源泉ソースである温もりが信じられなくなると
怖くなったり不安になったりするわけだ

それはむしろ
怖くなったり不安になっている映像が
やはり投影されているということだ

 

割れていないコップ

この話で大事なのは

“この現実”というのがそもそも
あなたが感じる安心や温もりを表現した
その結果であるということにある

たとえば手を滑らせてコップを落とせば
それは割れてしまう結果となるが

現実に固執するのは
割れたコップをじっとみつめて
それを変えようとしているようなもの

コップを綺麗にするには
結果ではなく
あなた自身が原因とならねばならない

つまり新しいコップを買いに行ったり
それを修理するという”原因”になるとき

その結果として
綺麗なコップ(新しい現実)がそこに現れる

先に話に重ねるなら
突然の停電で自分が光景と断絶されても
それまでいた人たちもここにいるという安心があるだろう

むしろ外界をみていたときよりも
深い安堵に包まれているかもしれない

いまや心の映像は
他人の外見や態度を判断した結果ではなく
純粋にその温もりだけが原因となっているからだ

 

虚しさの正体

というわけで
現実として現れているこの映像のなかには
確実な生き方というのはなく

誰であれ暗闇のなかを手探りで生きてるわけだが
まさにその手探りを支えてくれるものは
みえない温もりや安堵にある

そしてその安らいだ感得が
心の映像としてフィードバックされるという
わりと単純な原理にあるのだけども

もちろん先の現実的な停電の例と
何百万もの魂が同時にここにいるという話には
違うところがある

それは私たちの魂は
隣り合わせでひしめき合ってるが
ぶつかったりしないということ

なぜなら”物理的”というのも
映像として表現されているものだからであり

なにより「建物が停電になった」という光景自体が
本当はどこにもありはしない
ただ心に描かれた映像(現実)であるからだ

それはたとえば
こんなふうだったかもしれない

──

あなたは大勢の人がいる建物のなかにいた

そのなかには美しい人がいて
「あんな人が自分の恋人だったらなあ」と羨望したり

またなかには態度の許せない人がいて
その姿が視界に入るたびにイライラしていた

つまりこれまで
幾万回と繰り返してきた人生の虚しさを
今日もやはり味わってる

そしてもちろんこの休日がまもなく終わり
明日からまた嫌な一週間がはじまることへの
心の抵抗感も同じ

いったいなんのために
こんな毎日を繰り返しているのだろう

かといって
なにも得られなかったわけじゃない

欲しいものは買ってきたし
食べたいものは食べてきた

でもそれって
欲しいものや食べたいものを
いつもみつけてなければ
人生にはなにもないってこと?

なんだか疲れるなあ

安心するために
わざわざ安心できる何かを
ネットやなんかで探して
買い求めなければならないなんて・・

そのときだった

そんな現実の虚しさに気づいた
まさにその瞬間

建物の照明がすべて落ちてしまった

真っ暗闇のなかで泣き叫ぶ声や
「大丈夫だから」と声をかけてる誰かの声

あなたも不安だったが
とりあえずは押し合いにならないように
慎重に行動しようと
誘導員の指示を待つことにした

待っているあいだ
いろんな映像が心に浮かんできた

音や気配を頼りに現れてくる映像

だがそのすべての映像には

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