幸せへの扉は開いている

今回は電話をテーマにしよう
不思議に思ったことはないかね?
そこに相手が見えないのに
小さな機械の中から声がする

もちろん声が電波に乗ってやってくる
そんな話は知っているだろう

だがそれは科学という
マインドが納得するために
用意された概念だ

マインドは矛盾が理解できないから
理屈という納得、合点を作り出す

 

裏付けを引き離す

ではこう考えてみよう

声が電波に乗るということが
実は間違いだったと証明されたとする

じゃあいまあなたが
電話越しに話している彼や彼女は
誰なのかね?

さあマインドは慌て出す
あなたは謎を究明しようとする

謎とは純粋なる矛盾のこと
「二元性が‥」なんて
スピリチュアルではよく語られるが
それを超えたところ
そこは矛盾の世界である
だから言葉では形容できない

釈迦の拈華微笑、
そしてボーディダルマが無言のまま
禅を伝えたのはそのためだ

あなたの「見たままの光景」が
そのままにあるのだ

だから電話機から声が聞こえても
不思議じゃないし
その解明をするものでもない
「声が周波数に変換されて‥」と
理屈を添えて納得するものでもない
そもそも電話で会話をしていることと
電波に声が乗るという解説は
まったく無関係だ

それを不思議という表現にするのならば
ただ単に「不思議」がそこにあるだけ

だがそれをそのままに受け取れないマインドは
究明をしようとする
大海原にポツンと浮かんでいること
それがマインドにとっては不可能なのだ

つまり不思議や謎という概念の発端は
マインドの性質そのものといえる

 

偽りの答え

答えを探し求めれば
あなたが納得のいくポイントには
とりあえず到達する
まったく別のことを持ち出して
これはこうだ、と納得する

だが根本的なところは
葬られたままだ

それはなにか
電話、声、科学、答え

それらが浮かんでいるのは
一体どこなのかということだ

突然に電話というものがあり
突然に電話で会話するというもの
突然に疑問が起こり
突然に科学が答えを提示する

電話をヘンテコな裏付けで納得したとしても
この一連の出来事
それ自体の謎が解けていない

この謎は解くことができないのだ
解くこと自体が「その中」で
想起しているに過ぎないからね

 

究極の”謎”

あなたが悟りを探求したら
確かに「悟り」には辿り着く
だが辿り着いている時点で
それは悟りではない

「宇宙には中心も端もない」

さあどうやってマインドはカタを付けよう?
どこまで探し求めても見つからない
マインドは納得できない
大海原でポツンと浮かんでいる状態だ

そこでこう考え出す
じゃあ定義にしよう
それが”科学”だ
それがあなたの”幸せ”だ

そして今度は定義に囚われる
そうじゃなければならないからだ

「声が電波に乗るという話は間違いだった」
マインドは困惑したようにね
事実といえば
ただ電話で会話をしているだけだというのに
まったく関係のないところで焦り始める

幸せも同様、
お金がなくなったから幸せじゃなくなりました
恋人がいないから幸せじゃありません

幸せはそれ自体が多いなる矛盾に覆われている
いわば矛盾の境地が幸せとなる
こうだからこうなる、ではないのだ

単に「こう!」だ
あれも「そう!」で
こっちも「これ!」だ
それがそこにあるという様子のみ

だがマインドはそれが理解できない
理解するものでもないのに
理解しようとするから
小さな枠から出ることができない
だからあなたは「幸せ」を定義する

お金や恋人、健康や夢
そのようにして定義に囚われ
そこにある「そのまま」を
決して見ようとはしない

 

覚えておきなさい

「宇宙には中心も端もない」

だからどこまで行こうが
あなたが中心点なのだ
それが悟りというものだよ

 


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  1. ムトウ より:

    見るというのは、外を見ているのではなく内を見ている。
    視界は外界ではなくて内側の世界。 自分が自分を覗き込んでいる。
    先程、考えていました。

    そして「見れば見える」。  いつもありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      ムトウさん

      その通り
      私たちが見ているものは
      すべて心の中だ

      解釈をする前に何があるのだろう

      それは知ることはできない
      知ることの時点で
      それは自分の世界だからだ

      つまり外側は存在しないということだ

      すべて己の内の中
      だが人は外側があるものだと
      いつも手を伸ばしている

      ゆえに苦悩が生まれる
      手を伸ばしても何も掴めないからね

      どんな嬉しい出来事も
      悲しい出来事も
      辛いことも

      すべて自分がそのようにしているのだ
      だから誰のせいでもない

      生まれた境遇や
      姿形に囚われていることが
      すでに制限なのだ

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