神秘がみえる山頂へ

どんなことであれ
大してできもしないことほど
かえって気軽に取り掛かれるもので

たとえば新米社員や
何かの分野に踏み入れた初学者が
貪欲に知識を吸収していくのは
そうした心の作用が働いていることが大きい

もちろん陥りやすいのは
その満足感だけがまさってしまい
中途半端な理解に留まってしまうことだが

そこから深い理解に進んでいくには
困難を極めることになる

なぜなら勢いに乗って得られた
「自分はできる」という確信ゆえに
もはや当初のような気軽さがないからだ

するとますます中途半端なところで
頓挫することになり
いずれはそのこと自体の関心さえ薄れていく

こうして広く浅い経験ばかりの人生となり
結局なにも成し遂げないまま終わっていく

これは専門分野だけではなくて
人生のいかなる瞬間においてもそうだね

たとえば家族と顔を合わせているとき
あなたは相手のことをわかったつもりでいる

それはそもそも
理解しようなんて思っていないからだ

つまりここに逆説があって
相手のことを端から理解しようと思わないから
相手のことを知ったつもりになるが

それは安易な取り組みゆえに
そうしてまんまと”自分”に騙されてしまう

己は相手のことを
なにひとつ理解してなどいないんだ

やがてその人との別れのとき
そんな愚かさに気づいて打ちのめされる

毎朝目を覚まして食事して
青空の下を歩いていることもそう

一体この人生の
なにを理解しているというのか

知ったつもりでいるのは
真摯に向き合っていないから
つまりエゴの満足だけで生きてるからに
ほかならない

それはなにも知らずに生きてるのと同じなんだ

たしかに気軽な気持ちで取り掛かれることや
その心の解放によって

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