無限の世界(前編)

物事には原因があるね。

仮にいまあなたが嫌な気分になっているとしたら、当然それは「そうなった原因」があるからだ。

たとえばあの人やあの出来事のせいだろう。

あなたはあの人の態度や発言が許せなかったし、あの出来事さえなければいまごろ穏やかに過ごせていた。

そうして思いもよらぬ事態があって気分が悪いわけだ。だから体調だってひとつの出来事だといえる。

しかしなぜ、その人やその出来事はそうだったのだろうか?

冷静になって調べてみれば、実はそれら原因にも別の原因があったことがみえてくる。

たとえばその人は何かを見聞きしたせいで、あなたにそんな態度だったのかもしれないし、あの忌まわしい出来事も別の出来事によってそのようにならざるを得なかったのかもしれない。

そのように「原因の原因」がみつかるわけだが、ところがそれら原因の原因もまた、それがそのようになるしかなかった原因があったりする。

つまり「原因→原因→原因・・」と、原因はどこまでも連続しているということに気づくんだ。

 

人生に意味はない

さてこうして終わりなき原因の連続をたどっていると、その”途中”で「ある答え」に到達することになる。

その答えとは、一番最初のすべての原因を発見することではなく、永遠にぐるぐると回転している「不滅のゲーム」を発見するということだ。

この「不滅のゲーム」こそ、まさに己が体験している人生や運命そのもの、つまり現実そのものにある。

しかしなぜ「永遠に終わりなく回転している」のだと気づくのだろう?

たしかに良い気分になったり悪い気分になったり、そうした感情も、そのきっかけの出来事も、さらにはそのきっかけのきっかけも、この連続のなかに生まれていたものだ。

ところがそうして「原因→原因→原因・・」とたどっているうちに、この不滅のゲーム自体は、理由や意味を追い求めて回転しているようには思えないからにある。

なぜなら「良いや悪い」にしろ「原因や結果」にしても、この回転のなかの一部分を切り取って捉えたときに、あくまでその部分だけがそうみえているのだと気づくからだ。

 

“いま”そうみえてるだけ

つまりあなたがハッピーだったり、不幸な気分だったりするのは、その一連の流れのなかで、たまたまそうみえているだけにすぎない。

それゆえ、いまハッピーであることがあとで大きな不幸につながるかもしれないし、いま不幸であることが実は大きなハッピーのはじまりだったかもしれない。

ゆえに人生の「その時々の体験」とは、常に全体の”途中過程”にあるわけで、その体験が独自で固有としてあるわけではないんだ。

じゃあその全体とやらはどうなのだろうといえば、それは話しているように、良いも悪いもなければ幸福でも不幸でもない。

この全体それ自体には、原因も理由も意味もなにもない。

もしこの全体になんらかの意味をみているならば、それはやはり部分という入り口から眺めてそうみえているものであって、「全体」をどのようにみようとも、”部分”から判断しなければならないことになる。

しかしそうして見出された帰結は、全体そのものではない。

言いかえれば、あなたの知るこの人間の世界は、それは「あなたにみえている人間の世界」であり、それはあるがままの人間の世界ではないんだ。

だから「人生に意味はあるのか?」という問いの答えはその時々で変わるわけでね、後述するように、まさに”そうだから”こそ、人生そのものに意味はないんだ。

 

虹は何色?

たとえば空にかかる虹を想像してみよう。

その虹はどんな色?と聞かれたらあなたはどのように答えるかな。

七色に徐々にグラデーションしているなかの、どの部分を中心に捉えるかで、虹全体が赤色だったり緑色だったりの印象が強くなるだろう。

「永遠とぐるぐる回転している不滅のゲーム」も、そうして滑らかに色が変化しているような色の円環のようなものだといえる。

だがこの「全色が同時にある様子」をなんといえばよいのだろう?

「一枚の絵」と呼ぶしかなさそうだね。

つまり原因や結果、理由や意味などは、その変化し続けるグラデーションの特定の部分をみて「赤」だとか「緑」とか言ってるようなものにあり、虹全体を「何色だ」とは言えないように、「不滅のゲーム」というただ連続しているそれ自体は「意味」を定義づけることができない。

以前の手記でもこのように話している。

──

なぜ雨が降ったり晴れたり、太陽があったり、空気や肺の活動が存在する必要があるのだろう? なぜ地球というものがあって、そこに人間やその他の生物がいるのか。

たしかに雨や生物という「個別」でみれば、他の要素との関係において「理由」は生まれる。「これこれこういう理由で雨は降る」みたいなね。

ところが「この全体がなぜあるのか」には理由をみつけることはできないんだ。

──

 

意味がないゆえに意味が生まれる

しかしここでひとつの逆転が起こることになる。

たしかに全体(不滅のなにか)は意味や理由を持っておらず、ひたすら動き続けている。

だけどもその全体のなかの部分からみた視点においては、どのような出来事であれすべてに意味があることになるということだ。

わかるかい

「意味など本当はない」けども、“それゆえ”に無限に意味が生まれるんだ。

子どもが道路の白線だけを捉えて、独自の遊びを生み出すようなものだね。あなたも下校中に白線を歩き続けるみたいなゲームをしたことがあるかもしれない。

白線から外れたらアウトであり、そうならないようにと緊張感が保たれるわけだが、何が言いたいのかといえば、つまりいまあなたが苦悩しているのは「本当に苦しむ必要があるのか」ということにある。

自ら生み出した意味、自らが「いまそうであるからこそみえている苦しみ」に囚われているだけではないのかということだ。

繰り返しておくよ。

そもそも”全体”に意味はなかった。人生にも生まれてきたことそのものにも、なんの意味はなかったわけで、なんの理由もなんの根拠もなく、あなたはここにいる。

だけども己が人生をどのようにみているか、永遠の回転のなかの”どこ”に立っているかで、人生や生まれてきたことの意味は生まれるんだ。

 

苦しみという幻

さあここからが本題となる。

もちろん「不景気で金策に走らなければならず、家族を抱えてる身だから毎日不安だ」という状況はたしかに苦しいだろう。

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