優しさとは永遠なるものとひとつにあること

ひとつ前の手記で出てきた
ヴェールについてもう少し話しておくよ

己をいつも取り囲んでいる妄想の膜のことだね

 

世界に色をつけているのは自分

「後になってからその良さがわかってきた」
そんな経験があるだろう

たとえばある歌手の曲や
ある役者の出ている映画なんかがそうだね

その時はまるで良いと思えなかった

良いところを見つけようという
気持ちにすらなかった

その歌手や役者がなんとなく嫌いだから
という理由からかもしれないし
そうしたものを好きだという
他の人々に対する嫌悪からかもしれない

それともまったく別の何かが連想されて
それが評価の理由だったかもしれない

何にしても「これは好きではない」と
頭が即座に拒絶しているわけだ

ところが不意に耳にしたその曲や
偶然目にしたその映画のシーンが
とても素敵に感じられることがある

「あれ?わりといいじゃないか」
という具合だね

あれほど嫌っていたというのに
どうして180度の転回が起きたのだろう?

それはその歌手や役者に対して
創り出していたイメージが
突然の出来事に間に合わなかったからだ

頭の処理が追いつかず
もともとそこにあったものが
姿を現わすことになる

じゃあ本当の姿と
対面したから素敵に感じられたのか
というのは少し違う

その素敵さとは
特定の意味で決めつけていたことを
「解放したこと」による幸福なんだ

つまりもともとの姿は
いつも出会っているのであって
私たちはいつも
己を覆うヴェールを通じてそれをみている

だから自らで創り出した狭い世界に
いつも閉じ込められている

そして常にその内側にいるゆえに
この現実が己のイメージで
できていることになかなか気づけない

青いサングラスをかけていることを忘れて
世界から青みを消そうと
必死になっているわけだ

 

あの人が本当にしていたこと

さてこの同じ図式を
家族や恋人などの対人関係にも
みることができる

そばにいなくなってはじめて
その人が「本当にしていたこと」が
明らかになるからだ

もちろんその人が話したり
動いていたことは知っている

だけどもそうして知っている姿とは
己のイメージによって
歪曲されているものとなる

では「本当にしていたこと」とは
なんだろう?

たとえば先日に空き地の水たまりで
スズメが水浴びをしていたのを見かけた

羽毛の手入れをしていたんだが
とても可愛かった

しかし都会のスズメは1年ほどしか生きられない

彼らはそのわずかな生の時間に
いろんな朝や夕焼けをみて

大空を自由に飛び回り
敵に襲われている仲間がいれば
みんなで助け合った

胸を張って生きていた
生を存分に味わっていた

そんな数々の美しい思い出とともに
彼らは”透明”のなかに消え去っていく

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