私たちは何者なのか(1)

あなたが人生の一切の苦悩から解き放たれたいのならば、他人や物事について振り回されてそれを解決しようとばかりに追われるのではなく、なぜ「自分の存在」がいまここにあるのか、それを知らなければならない。

この「自分」の正体とは、自分以外の他者(他人や事物など)というきっかけがあって、それについて「思考されていること」であり、自分という実体があるのではない。つまり自分以外の何かが自分の源泉、言い換えれば自分とは自分以外のすべてであるということだ。そこに美しいものがあれ、醜いものがあれ、それがあなたとなる。

たとえばいまこの文章を読んでいるだろう。あなたがすでに存在していてそこに読まれる文章が画面に表示されたのではなく、読まれる文章があるからあなたがそこに出現しているのだ。だがこれは逆説的なアプローチを経なければ真実の扉を開くことができない。つまりここに文章があるというきっかけが「自分」を生み出したのだけども、それは「文章に読まされている自分」がいるのではなく、「自分が文章を読んでいる」という思考により「文章がある」という表象がここに認められているのである。つまり私が何を書いていようとも、それはあなたの思考なのだ。なぜならば私があなたであるからだ。

他人も自分も実在しない

「他者は実在しない」というのは、つまり自分が実在しないということにある。「自分」という思念は他者をきっかけにして生み出されるのは上で話した通りだが、他者の存在が「自分」の源泉であるというならば、その他者は「他者にあらず」ということだ。そこに見えている他者の姿や言動は「思考という自分」が「思考したもの」であり、その他者の姿は確固たるものではない。あなた独自の世界観としてそこに見えている。

合わせ鏡をイメージするといい。鏡を覗けば自分の顔が無限に増殖する。すべてがコピーのコピーでありその原本とは「最初に鏡を覗いている自分」であるけども、それは鏡を覗こうとしている「思考」であり、つまり「映された自分の顔を見ている思考」なのだ。だから原本を発見することはできず「映し映されるループ」が始まりも終わりもなくただ起きているのである。

つまりそこに見えている他者は「きっかけ」から思考し、その思考された対象にすでに入れ替わっている。こうして思考の変化に伴って他者の姿も常に変化していく。この文章もあなたの理解の変化によって解釈が変わる。だが「自分」を固く握り締めてしまうと同じ見方を続けることになり、世界や現実は、つまり他者の姿はそのままとなる。

これと同じものがこの人間世界の全貌であるのだけども、この事実を紐解こうとするとき、自分と他者を区別して考えてしまうと理解することはできない。だからそうではなく「すべてはひとつの巨大な思考のなかで起きている」という第三の視座が必要となる。

よく野球にたとえたりするけども、そのゲームのなかでは野球での勝敗でしか解決は見出せない。自分のチームと敵のチーム、その死闘や人間ドラマ、たとえ試合に勝ったとしてもそれも野球のなかだ。だが球場から離れてそれを見下ろすとき、すべてのリアルが虚構となる。

二重世界

以前、私たちの世界とは二重構造であると話したことがある。そのとき比喩したのが、ひとつは物理的な自然界であり、もうひとつはそこを覆うように漂っている巨大なひとつのガスであるというものだ。その巨大なガスの内部で私たちが体験している人間世界が「思考」されているとした。

それは大きなひとつの「思考の塊(思念体)」であり、そのなかで「思考のきっかけ」が次々と起こっては、それに対して「思考する」ということが繰り返される。そこで思考されたことが「新しいきっかけ」となり、またそれについて思考がされていく。この連鎖こそが人間の社会や文化、常識、交流といったものであり、つまりこの連鎖を離れた「第三の視座」を獲得することで、人間世界のループから抜け出せるということだ。

連鎖から離れるためのヒントはもちろん「人間世界」そのものにある。そこで今回は人類の歴史を参照しながら現実の突破口を見出していこう。

だがそのまえに注意しておかなければならないことがある。「二重構造」や「物理的な自然界」というのも、この思考ガスのなかで定義したものにすぎないということである。それを忘れずに頭の隅に入れておかなければならない。そうした思考の「外側の何か」について考えを及ぼそうとする限り「本当のこと」は逃し続けていく。

つまりこの注意書きにも大きなヒントが含まれているということだ。現実のすべては思考されたものであり、思考というプロセスを通じて私たちはそれを認識する。だが思考できないものを知ろうとするとき、思考してしまうことでその純粋な状態ではなくなってしまう。つまりどのような「未知の」光景に辿りついても、どのような「未知の」発見をしても、それを知った時点でもはや思考されたものでしかなく、単に「未知だ」という付加価値を自ら乗っけているだけにすぎないのである。

だから実際はどのような初体験も「初めてではない」のだ。最初から私たちはすべてを「知っている」のであり、人はすでに知っていることを悟り続けているだけでしかない。そうでなければなぜ「悟ろう」とするのだろう? それがなんであるか知っているからその発想が浮かぶのである。

死について

そしてもうひとつ重要なことがある。

私たちは決して消滅しないということだ。

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