「いま」って何だろう

誰もが錯覚しているが
思考は連続的に変化するようなものじゃない
固定的な一枚絵であって
それが紙芝居のように
その都度入れ替わっている

その一枚絵のなかに
未来や過去や因果関係のすべてが
描かれている

じゃあどうやって”思考”できるのか

つまりあなたは「観ること」しかできない
思考という風景を観ているのだ

つまり思考とは「未来と過去」だといえる
そこに実在しない妄想の世界
それが未来過去、つまり「思考」だ

だから覚えておきなさい

思考とは何か?
それは未来と過去のことだ
時間の流れとして置き換えずに
紙芝居の一枚絵として捉えることだ

それが本当に起きていることなのだからね

だからいまここに描かれた
未来と過去のことを
あなたは「思考」と呼んでいるわけだ

では「いま」とは何だろう?

それは便宜的に「いま」と
呼ばれているだけであり
時間的な現在のことではない

簡単にいえば”思考以外”が「いま」となる

体が感じる感覚のすべて
つまり体の重さ、温度など
思考を介さず感じていること
それが「いま」だ

だが一体何と「接触」しているのか
それはこの世界、
すなわち「あなた」なのだ

だから「いま」とは本当のあなたのこと

あなたはあなたと触れ合っていること
本当の自己に溶け合っていること

それを「いま」というのだよ

 


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  1. 匿名 より:

    この記事とても分かりやすかったと私の思考が言ってます

    • 自分 -涅槃- より:

      >>匿名さん

      あなたをひとつ奥へ導こう
      本書を「一切言葉の意味を解釈せずに」
      読んでみなさい

      それが「起こり」というものであり
      世界の真実だよ

  2. 涅槃の書-自分 より:

    ワモノさん

    > 「いま」って何ですか
    「マインド」って何ですか
    「本当の自分」って何ですか
    「エゴ」って何ですか
    「幸せ」って何ですか
    「起こり」って何ですか
    もう分からん

    その「何ですか?」と問うことがすべての答えだ。

    悪事を働くというとき、どんな悪人でも「よし悪いことをやろう」として悪事を働くわけだが、じゃあ極悪人にもちゃんと良心があるということになるね。

    この話でいうならあなたは「悪事を働いている私」ばかりをみているが、それをみているのは何だろう?

  3. ワモノ より:

    >この話でいうならあなたは「悪事を働いている私」ばかりをみているが、それをみているのは何だろう?

    わかりません
    わかりたいけどわからない
    理解したいけど理解出来ない
    実感したいけど実感出来ない
    そもそも「悪事を働いている私」をみているという感覚さえない
    私が「悪事を働いている」
    私が「知りたい」
    私が「質問をしている」
    「質問をしている私」を「知りたい私」を「苦しみから解放されたい私」をみている何かなんて感じ取れない

  4. wamono より:

    記事を読んでいたら10年前の私がいた。あの頃から一つも成長してなくて呆れる。いや、あの頃より酷いかもしれない。もう「いま」とは何か問うこともそこに入ろうとする気力も無くしてしまった。これを書いてる「いま」何故涙が込み上げてくるのかも分からない。ただただ疲れた。何だったんだろうなぁ

    • 涅槃の書-自分 より:

      wamonoさん

      ちょうど一年前のあの連絡から、あなたがその後どう過ごしているのか、ずっと気にかけていたんだ。投稿をもらえてよかった。

      私たちは人生を進めるたびに、悲しみや虚無感が増していく。

      たとえば幼い頃にはこの現実の意味を、そしてそれはもちろん「素晴らしい意味であるはずだ」と捉えて、将来の夢や叶えたい理想に希望を輝かせる。

      ところが長らく生きているとわかってくるのは、それを実現した途端に輝きは失せてしまったり、それを実現してもそれを維持していくのが大変だったり、またはそれが現実的に叶わないことを思い知らされたりすることだ。

      そして悲しいことや許せないこと、そして一生背負い続けなきゃならないものに直面する。すると「この現実に”意味”など本当にあるのか」と拭えない疑問を抱えることになる。

      それでも、己の現実が悪いものであってほしくないから、前向きに捉え直したりもするけども、やはり”現実”は変わらないわけだ。

      あなたも深い悲しみを経験してきた。それはなにより、なんのために自分は生きてるのか、なにを糧に生きればいいのか、という問いそのものを生み出すだろう。

      それは10年前もそうだったのかもしれない。だが10年が過ぎても、なにもみつけられないし、ますます心の傷は深まるばかりで、だからあなたの涙もよくわかる。その観点に立つ限りは私もあなたと同じだからだ。

      先日「旅人」という手記を書いた。

      ──

      ホームセンターで日用品を買って
      買い物袋を手にぶらさげて店を出るとき
      同じように買い物に訪れた人たちとすれ違う

      そんなとき
      悲しい気持ちになることがよくあった

      泣きたくなるこの気持ちはなんだろうかと
      いつも疑問だった

      だけども店の外の
      なまぬるい風に体をひたして感じていると
      心が和らいだりするので
      そうして忘れるようにしていた

      ──

      これは冒頭部分ゆえ、またあとでこちらから読んでみてほしいが、この手記は、私たちそれぞれが人生の意味を探す孤独な旅人であること、そして皮肉なことに、人生の意味を求めることから離れたときにだけ、つまり、なまぬるい風に体を浸したときにしか、心は解放されないことを伝えている。

      たとえば仏教は”仏教そのものの二重性”を暗に示している。

      それはつまり、現実に嫌気がさしたことが、宗教に依拠するきっかけとなるけども、ところがそうして寄りかかっている宗教そのものも現実上の虚構であることを見抜けない限りは、その宗教が伝えようとしている本当の教えを受け取ることができない。

      これは以前に別のところで載せた回答だが一部引いておくよ。

      ──

      これは宗教やスピリチュアルを探究する人がかならずぶつかる壁なんだ。

      だからこそ「瞑想中にブッダをみたら斬れ」と言われるが、ブッダに”救いを求める人”は、瞑想中にブッダが現れたらそこに縋り付くことになる。

      「ああ、やっと自分を守ってくれるものをみつけたんだ」となる。

      だがいつも話しているように、釈迦は「すべては幻である」と喝破した。すると「すべてが幻であると述べる釈迦」もまた幻となるわけだ。

      “二重の扉”はそこから開かれるのだけども、探究者はひとつめの扉で満足しようとする。だがそこには”エゴの都合”が根を張っているだろう。

      嫌なことや悪い境遇だけを「幻なんだ」と都合よく片付けたり、またそれゆえに、とても浅いレベルでの願望実現や引き寄せの法則なんかに頼ろうとしてしまう。

      だがすべては幻であると話すその釈迦さえも幻であると気づくとき、まさに夢も期待も木っ端微塵となる。

      そしてそのとき「すべては幻」ということがどういう意味であるのかがみえてくるんだ。

      ──

      私たちは人生の意味、現実の意味を探し続けてさまよっている。だがそうであるからこそ、希望の輝きを曇らせる出来事に直面すると、悲哀や虚無感につかまれる。

      だがその虚しい輪廻から脱する鍵となるのは、それこそが、あなたが問うのをやめたと話している「いま」なんだ。

      風が体を包み込んでいることを感じているとき、それは”いま”を感じている様子にある。

      自我(エゴ的な心)は過去や未来に囚われる。むしろ過去や未来をもとにするからこそ、苦しみや絶望に染まる。それは自我そのものが「時間」のなかでのみ生ずるからでもある。

      過去や未来を持たない自我があるとすれば、それはなんだろうか。それは自我ではない。つまり世界のなかをさまよう自分ではない。

      「いま」には、時間が流れていない。いまが永遠にあり続ける。いまは常にここに、あなたと共に在る。「いま」を感じているとき、自我は消え去る。

      自我はスクリーン上の映像のように離れたところから眺められている。ブッダでさえも映像にすぎないことを知る。それが仏教の示していることだ。

      しかしそのとき眺めている己は何者だろうか。時間を持たないその眺める者には、自我の観点による悲しみがない。だからといって感情のない機械でもない。むしろ途方もない何かが満ちている。

      自我による暗雲でこれまで覆い隠されていた、澄んだ上空が果てしなく広がっている。それが「いま」なんだ。

      だからこの現実という雲の向こう側を透かせて感じられていること、たしかに悲しいことや辛いこと、うまくいかないことが現実を構成している。そしてそれが自我そのものでもある。

      あなたが自我から離れるには、その意味への執着から離れなければならない。「いま」とひとつになる機会を増やすこと。

      なにより、そうして離れられるからこそ、これまで出会った人たちや困難がありながらも経験させてくれているこの世に本当の意味での感謝ができる。

      あなたは現実の意味のなかに閉じ込められていないからだ。

      というわけでね、「いま」から離れるほど悲しみや虚しさは強くなる。だから「いま」を問うのをやめたからこそ、疲れ果ててしまう。なぜなら「いま」にこそ充足があるからだ。

      それゆえ、「いま」何故涙が込み上げてくるのか、とあなたは疑問を抱えているけども、それは「いま」ではなく、過去と未来に挟まれた「現在」だからだ。

      過去と未来によって連なる世界の外側で「いま」はすべてを包み込んでいる。

      これまでのあなたとの交流からもわかるように、あなたはシンクロニシティを感じ取れる深い感性が開かれている。だがそこに理由や理屈を求めてしまうと、当初感じられていた「不思議なあの感じ」が消えてなくなる。たしかにシンクロは起こるが、現実の向こう側を透かせる力はなくなる。

      新しい物事をはじめたときや、新しい出会いがあったとき、毎回そこには「満ちたもの」が感じられているはずだ。それはまだ過去を持たないからであり、過去を持たないからその延長としての未来の想定もない。明るい未来が続くように感じられているのは、それが時間的な未来ではなく、いまが永遠に在るという直観にほかならない。

      だからあなたは深い感性と同時に、それを問うことのできる明晰さも備えているが、しかしそれらは”対等”なバランスを保っている必要がある。

      これもよく話すことだけども、時速100kmで走る車と同じ速度で並走するとき、互いに静止してみえる。「いま」もまた、心の速度を調節し合わせていくことで、徐々に並走がはじまり、やがてそれそのものになる。

      そのバランスが保たれているとき、あなたは人生という神秘、その安堵に包まれたなかで、この”答えのない旅”に感謝と満足と、そして本当の喜びをみつけられるはずだ。

      ありがとう。

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