使い捨てロボットが意志をもつとき-5

私たちの正体は思考そのものである。つまり私たちは心である。私たちは思いである。

考えるということ、思うということ、その形なき行為そのものが私たちの本性である。でもいったい「考えること」はどのようにして起きているのか、いくら自由に物を考えられるといっても、注意して自分の思考を観察してみれば、そこにはやはり一定の規則性があることがわかる。

・私は男である。私は女である。
・今日は寒い。あれは猫だ。
・この自転車は赤色ではない。
・いまはお腹がすいていない。
・夫から連絡があったら食事の支度をはじめよう。
・やりかけの仕事を終わらせなきゃ。

このように、「AはBだ」とか「AはBではない」「AであればBである」といった感じで規則性があり、つまり現実とはAやBに何が当てはまっているのかの違いだけということである。主語を飛ばして「寒い!」とか「遅刻する」とかいうのもあるが、それは単にAが隠されているだけだ。

このような規則性、法則性があり、矛盾なく意味上のつながりがあるものを論理という。つまり現実世界というのは「認識しているゆえに存在するもの」だから、すべて論理的なものとなる。

「でも笑ったり泣いたりするとき、愛しい人やペットと触れ合ってるとき、美味しいものを味わった瞬間なんかは、いちいち考えてそれを感じたりなんかしていない」とあなたは言うだろう。それはそうだ。それらは直観的なものだ。だがその感じたものを「認識」しているとき論理的に解釈されている。論理的に置き換えなければ、それがなんであるのかを知ることができないからである。

よって「知ること」により現実は現れているのだ、だから光景のなかに矛盾を見つけることができないのである。そして「知ること」とは、思考しているということである。私たちは現実世界を「知ること」によりここに存在しているのである。つまり「知りかた」ひとつで現実、すなわち自分の人生がそっくりそのまま変わるということにある。

理性と合理性

大事なところなのでもう少し踏み込んでおこう。物事に触れて、それがなんであるのかを「知る以前」にある直観的な体験こそが「真実の世界」に触れているのである。そのとき、あなたはそこに存在していない。だがその体験がなんであるのかを認識した途端に「すでに知っている何か」に置き換えられるということだ。あなたはそこに出現している。

「知られる現実」はすべて論理的世界であり、つまり「知られる現実」そのものはホットなものではなく、単に「説明」を見ているだけでしかない。

いわばスポーツカーを実際に運転した「躍動感」はなく、その車の「取り扱い説明書」を読んでいるだけ、それだけで運転しているつもりになっているようなものである。これが人々が陥っている無気力で虚しい現実の中身となる。

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