使い捨てロボットが意志をもつとき-16

「自分はなんであるか」と問うてみれば、すべてが外側の情報であるとわかる。名前、性別、好きなこと、苦手なこと、出身地、身長や体型、髪型、学歴、職業、特技、誰の子であるか、誰の友人であるか、最近はまっていること、将来の夢・・。

だから「自分」というのは、その内側のなにかを指しているのではない。すべて外側のなにかを指している。

ではそうした外側にあるものとはなんであるのか、それらはすべて「考えられて存在しているもの」である。つまりこの世は思考されていることだけで成り立っているのだ。

そこにあるテレビやカーテンも「考えられて」その存在を浮かべているものであり、もし思考を取り除くことができるのであれば「この世は何もなかった」ということが判明するだろう。

「間に合わせ」で出来ている世界

すべては思考である。ゆえに思考の尺度をどこに合わせるかで、細胞や粒子の世界、人間の世界、そして惑星や宇宙空間の世界がみえてくる。それらは互いに矛盾した関係にある。人間の発明した「科学」というスコープでは尺度ごとにルールが違う。つまり人間の生み出す科学にしろ哲学や宗教にしても、その時々の都合に合わせて考えているものでしかないからだ。

ミクロな世界のどこを探しても「心」や「意識」が見つけられないし、マクロな世界をみれば「存在の意味」が見えてこない。そのどちらにも人間がいない。思考されている世界とは、なんでも切り出せる巨大な粘土から様々なものを「定義しているだけ」のことであり、その定義が揺らげば切り出したその何かは意味を失う。意味を失うということは、人間の思考上でそれは認識されないということである。

いま部屋のなかを見渡してみればいつもの部屋の光景があるが、それは「意味が与えられたものが見えている」のであり、意味の与えられていないものも、いまここに充満しているのだ。だがその総合とは「粘土そのもの」であり、つまりすべてを生み出す粘土がそこに露わにあるとき、それは「なにもない」ということになる。

家に家族の姿があるならば、彼らはあなたに意味の与えられた存在だ。よってそこに姿がある。また夜空や道路もそう、あなたがトイレへ向かうときに移り変わる光景もそうだ。すべては意味を与えられているから現象している。これぞ人間の世界である。ただし人間はそうして自ら与えた意味に囚われて、苦悩にのたうちまわる。

だが意味を与えなければそこには「なにもない」のだ。

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