使い捨てロボットが意志をもつとき-12

思考について考えよう。

人は思考に振り回されているが、思考そのものをどのように捉えるかに思考を向けるとき、そこから解放される。そこで第一にあなたが理解しておかなければならないのは、思考とは「自分の心の中で生じているのではない」ということである。

これにはいくつかの意味が含まれるが、まず観念と概念の違いからだ。その二つを完全に分離させる必要がある。

観念と概念

私とあなたが向かい合っている。私が言葉で「赤い色」といえば、あなたの心に「赤」のイメージが浮かぶ。ところが、その赤のイメージと私が自分の心で浮かべている赤色は同じではない。この心的な像が観念というものである。

そして言葉で伝えられた「赤い色(あ・か・い・い・ろ)」が概念となる。たとえばいまこの文章を読んでいるが、あなたが心に浮かべているものと、私の中で浮かんでいるものは違う。つまりこれが現実世界そのものの現れ方の違いの第一の要因といえる。

たとえば私と一緒に街を歩いてみよう。視覚や聴覚に様々な情報が飛び込んでくる。その都度私たちは心の中にその光景を浮かべている。あなたの勘が良いならばここで気づくかもしれないが、それがそこにある時点で、すでに心の中を見ているということだ。概念という伝達以前にすでに観念の世界がそこに広がっている。

いま周囲をごらん、現実世界はすでに「心のなか」である。つまり内も外もないということだ。私の存在も最初からあなたの観念であり、その風景のなかで一緒に歩いているのは「この」私ではない。

概念の情報はいつ送られてきたのか

では概念はどこで発生しているのだろうか。さっき私が言葉で「赤い色」と伝えたように、いまここにある光景はいつ伝えられてきたのか。視覚や聴覚に「すでに飛び込んできている」のではないか。つまり情報を吟味する猶予などないということだ。

だからあなたは常に言葉(コード)を投げかけられている状態にある。そのシャワーを浴び続けている。毎朝目を覚ませば「無意識の世界へようこそ」と現実の光景はあなたを歓迎する。光景は言ってみればホテルマンだ。彼らは上部の命令(コード)に従っているだけでしかないが、あなたがその上部と関わることはない。常に「光景化」した命令とやりとりしなければならない。

だから現実をいくら解決しようとしたところで「なにも変えられない」のだ。一時的に何かが解決したようにみえることもあるだろうけども、いったいそれであなたの人生の何が変わったというのだろうか。違う現実に迎えられたいのならば、命令を下し続けている上部の組織そのものをごっそり入れ替えなければならないのである。

あなたも命令に縛られている

無意識の雲という人類が吐き出し続けてきた蓄積物の総体があり(正しくは「蓄積された」から人類が発生している)、そのなかには思想、常識、価値観、知識、ルール、法則、そうした「普遍性」の一切が刻まれている。

ここで重要なのは、なぜ普遍的だと感じられるかということにある。それは「人間的な見方」として辻褄のあう法則に沿られているからだ

つまり無数の概念が記録されている「無意識の雲」から「法則に沿ったひとまとまりの」無意識のパッケージができる。それが「殻」である。いまもあなたが頭部にすっぽり被っているそれのことだ。あなたはその法則性、規則性のコードで覆われた殻のなかでヴィジョン(観念)を浮かべている。それがあなたの現実世界である。

あなたは何かを考えるとき、必ず一定の規則にしたがった思考経路をたどる。たとえば排中律といって「あれは猫であるか、猫でないかのいずれかである」というふうな矛盾する論理は、現実的な実用性はないだろう。だからあなたは必ず「矛盾しない論理形式」を自然に用いている。人間的にみて「矛盾しない論理」が必ず採用されているのだ。ここが重要だ。

なぜならそのおかげで現実はガチガチに縛り付けられているからである。何かを始めようと思っても、すぐに「答え」がみえてしまう。なにか不測の事態が起きたならば、すぐにそれは不幸なことに結び付けられてしまう。そこに「矛盾」はない。ゆえにあなたはいつも八方塞がりなのだ。

どうして家族のささいな言動に腹がたつのだろう? どうしていま人生最高の様子ではないのだろう?

つまりあなたがいつも被っているその「殻」が、ある法則にしたがった概念だけが集められたデータバンクなのだ。あなたはそのなかで有無を言う隙もなく、現実を見聞きし、そして「思考させられている」のである。

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