私たちは何も気にする必要も、恐れる必要もなかった

私たちは目に見えている対象についてはいつも考えているが、それを認識していることについてはまったく見落としている。

まず人間というのは、言葉のなかに存在している。

もしこの肉体が人間というならそれはおかしいことになるね。体を解剖しても、思考も感情も、また「懐かしい子どもの頃の記憶」も出てこないからだ。

しかも体は数十兆の生きた細胞と100兆を超える細菌の集まりであり、さらに尺度を拡大してみれば、自然運動を続ける分子構造があるだけだ。いまの物理学なら、原子は物質などではないとさえ語っている。じゃあ私たちはなんなのか。

言ってみれば、深い森のなかで無数に生息する樹木たちが、心のなかで言葉を使っているのと変わらない。一歩もそこから動いておらず、ただ雨風や日光を浴びているだけだ。

だが樹木は豊かな文明世界を体験している。マリンスポーツを楽しみ、ビーチチェアでブルーハワイを飲みながらスタンダールを読んでいるかもしれない。

だが木は、己が実は人間でないことに気づきはじめる。自分はもしかすると、あそこに生えている木のようなものじゃないのかとね。だが木さえも言葉の産物ゆえに、言葉を取り払ったここには本当は何があるのか知ることができない。知った時点でそれは言葉に置き換えられたものだからだ。

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