いまの恋愛は非常に倍率の高い入学試験のようなものだ

デカルトは自分以外のすべては幻想にすぎないといった。我思うゆえに我あり(考える自分がいるゆえに自分がいるのは確かだ)だね。

だが彼がよく指摘されるのは、その考えている自分さえも考えることによって現れているのであって、つまり彼はどこかに主体を置かなければならないという前提に囚われているということにある。

言いかえれば、個人という枠をベースにして、世界を捉え直そうとしたわけだ。だから「どこかに主体を置かなければならないという前提に囚われている」というのは、現代の思想による見方であって、むしろ彼の時代背景を考慮しなければならない。

確かに彼の登場から人間の世界は大きく変わった。それまで1000年以上も続いていていたカトリック教会の教理によって「神の子どもたち」だった人類が、その呪縛から切り離されて自由にものを話し、自由に人生を選べるようになったわけで、歴史をひっくり返すほど事件となった。

もちろん彼だけというわけではなく、ルネサンスという時代の風潮を経て、デカルトやガリレオたちをはじめとした、「ものの見方の転回」が起きた時代だったわけだ。

だがいつも話しているように、これは良いことばかりではなく、それまで心の拠り所だった「大いなるもの」から人々が切り離された瞬間でもある。人々は自分の拠り所を自分で作っていかなくてはならなくなった。

たとえばいまでこそ恋愛という概念は当然のものだが、しかし妙だと思わないかな。

恋愛というのは非常に倍率の高い入学試験のようなものだ。それゆえに人はどんどん自分を偽り、駆け引きをして、優位にものごとを進めようとする。

つまり戦略家でなければ恋愛できないということ、勝ち取れないということ、たとえ自分が純粋に素直にアプローチしても、お目当ての相手がそもそも現代という時代の人であるゆえに、やはりそれなりの体裁を必要とする。

しかし恋愛というのは、そんな表面的なものなのだろうか。

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