あなたがいるということ -夢見る乙女-

とある手記で

「幸福になりたいけど幸福がなにかわからない」
「でもその感覚はなぜか何となく知っている」

そのようなことを伝えている
実はそれがすべてなのだ
そこに鍵がある

あなたが「ああ、このままでいいんだ」と
いまその瞬間の自分のすべてを受け入れたとき
そこに幸福がある
だから常に幸福なのだ

だけども何か外側のものを求め得ることで
幸福になると思い込んでいる
確かにその得た一瞬は幸福なのかもしれない

でもね、その一瞬にあなたが感じたものとは
「ああ、このままでいいんだ」
なのだよ

例えばあなたがある目標を達成するために
決死の覚悟で戦いに挑んでいたとする
まあ現代風に言えば、事業の立ち上げとか
受験とか、そんな感じかな
あなたは「これに失敗したら後がない」と
カジノのルーレットで置くチップのように
人生を賭けものにする
あなたは「絶対に成功させてやる!」と
少しの泣き言も許されない状態に
自らを追い込むだろう
その裏側には当然「失敗するかも」がある
その気持ちを表に出してはすべてが終わる、
あなたはそう思い込んでいる

このときあなたは未来を見ている
決していまを見ていない
つまり、
いまその瞬間の自分を受け入れていない

だから悟ることだ

「ああ、私はすでに失敗している」
「完璧に失敗している」とね

成功や失敗とは未来か過去のことだ
決していま現在のことじゃない
だから「いま」にはまるで関係のないことだ
だがそこに拘るならば
最初から失敗していることを知ればよい
マインドにとっての「失敗」とは
あなたの消失なのだから
それほど「効果的」な受け入れはないだろう

期待もなく焦りもない
どうなろうと構わない
どうなろうといまは変わらない
いつもその心持ちでいれば
すべては開かれる

多くの人は人生を先に置き
そこへ辿り着くために常に賭けている
未来へ意気込むあなた
だが現在のその瞬間にいるのは誰だ
ただ虚しく何の力もなく見向きもされず
置き去りにされた本当のあなただ

目標達成などどうでもよいことだ
あなたが常にいまに在るのならば
達成が過程であることを知っているだろう

達成などない
ゴールはなく人生は常にプロセスだ
つまり目標達成を失敗しようが成功しようが
常に過程だ
だからマインドが恐れる失敗も成功もない
ただ、マインドが人生を先に置いていることは
単なる苦となる

参考に以下を読みなさい

 

私は運命の人との出会いを夢見る乙女
何人かの男性と巡り会ったわ
だけど私の理想とは違う
みんな優しいしお金も持ってるけど‥
もっと!もっと!もっと!
それが理想よ

でもね、待ち続けてもう30代
焦ってないと言えば嘘になるわ
私は「自分に正直」だから

あれ?もう40代になっちゃった
待つのも探すのも諦めない
だって私の「人生の本番」は
まだ始まってないもの

最近腰が曲がってきた60代
布団から起きあがるのも苦痛なのよ
こんなとき、
私の王子様がそばにいてくれたら
そんなことばかり思う日々よ

何年待ち続けたのかしら
私は病院のベッドの上
もうこの人生は終わりが近いみたい
人生の本番が始まらないまま
私は終わっちゃうの?
私は人生で結局何もしていないじゃない
一体何だったの?
私は不幸とか寂しさを味わうために
生まれてきたの?
神様がいるならこう言いたいわ
ファッキュー

 

これを逆に読めば
般若心経を理解したこととなる
いいかね
釈迦ですら6年の荒行でも
気が付かなかったのだ
大抵の人は諦める
それが彼にはできなかった
彼は大変に
強靭な精神力の持ち主だった
才覚溢れた青年
いまでいうところの
若くして大成する実業家と
同じスキルを持っていた

上の例にあげた「乙女」も同じ
彼女も人生の本番を掴むため
諦めることなく求め続けた

だが多くの人は諦める
そこまでの野心や精神力を
持っていないからだ

早い話が諦めた人が人生をモノにする
つまり「乙女」の人生の本番とは
その「本番を待っている日々」だったのだ
彼女はそれがまったく見えていなかった
宝は自分の家の中にあったのだと
古い教えではよく言われているが
そういうことだ
つまり「いま」輝かしい世界にいる
それを見逃し続けた人生だ

「人生の問い」に答えを求める愚行
人生を終えるとき
問いこそが答えだったと悟る
切望していた「答え」などなかったのだ
問い自体が答え
1+1とは1+1なのだ
マインドは2を求める
求め続ける

目標を人生の先に置けば
つまり意識を未来に置けば
そこまでの過程が空白となる
だから「乙女」は
「人生で結局何もしてこなかった」となるのだ
彼女の「いま」はずっと空白だった
遠い向こうにぶら下げられたニンジンだけを
いつも追い求めていた

釈迦が自らの「求め」に疑問を感じ
ただ呆然としていたとき
「それ」に気が付く

「ああ、このままでいいんだ」

大笑いしたことだろう
何とバカバカしいことに囚われていたのかと

多くのスピリチュアル伝道者は
人生が窮地になったときに
「それが開いた」と説く

別に窮地になる必要はないが
要は「諦めた」のだよ
問題を解決することをやめた
人生に意味を見出すことをやめた
もうどうにでもなってくれよ、
そういうことを心から思ったのだ

あなたが自分の希望や目標
つまり自分自身というものを捨てたとき
一体どうなる?

ただ「問い」だけが残る

いままであなたは
「ああいう人物のようになりたい!」
「どうやってなろうか?学歴?自己啓発?」

「幸せになりたい!」
「どうすればなれるのだろうか?お金?」

「あれは手に入れた!もっと満たされたい!」
「次は何を手に入れればいいのだろう?」

あなたは常に何かを求めている
それを手放すのだよ

ここでひとつの罠がある
諦めれば必然的に「満たされたいま」が現れる
満たされているから
あなたがそもそも描いていたビジョンが
「具現化していた」ことに気が付く日がくる

これを先に受け取ってしまっては
未来にぶら下げたニンジンと同じループとなる
だから多くの教えでは
「教えを受け取ったら忘れなさい」と言われる

基本的に人間はマインドという幻想世界の住人だ
だから苦しんでいる
苦しみすらも幻想であることを
知らせるために「教え」がある
だが用法を誤ると教えすらも苦しみと化すのだ

まず
「見ている世界とはそういうことだったんだ」
それを理解し、そしてすべてを、
その「教え」すらも忘れてしまいなさい

教えながら忘れさせるという
しかも真実をまだ理解できていない人々へ
それを伝えるわけだから
工夫を凝らせた表現で溢れているのだ

受け取る側の理解によるところが大きいから
「理解した!じゃあ明日から
幸福になれるんですね!」
という考えになる

そういう考えに対して
「あなたの世界は『明日から幸福になれる』が
ずっと続くだろう」と聞かされる
そして絶望する
期待をしていたからだ

「期待がなければ絶望もない」
そのように聞かされる

もう意味がわからない
意味を求めているからだ

「求めなければ意味もない」
そのように聞かされる

こういう問答がすでにあなたの本番なのだ
そこから答えを見出すものではない
「ただ、問答がある」つまり
ただ、それがある
なにがどうあろうと
あなたは満たされているのだから

あなたがそこにいるということ
それ自体が完全であり
マインドでいうところの「答え」なのだ

 

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