強い人

空を見れば
鳥が飛んでいる
そして去っていく

仏壇に飾る花、仏花とは
「この世のすべては過ぎていく」
そういうことを現している

芽が出て花が咲き、そして枯れる
ただ過ぎていくだけの現象
その現象を我々は美しさや儚さと認識する

あなたがどんな状況にあろうとも
それらの意味付けをなくしてみれば
すべて、ただの過ぎていく現象となる

もちろん現象があなたではない
それが来る前も去った後も
あなたはそこにいるからだ

つまり仏花とは
そういうことを伝えるために
伝統とされてきた
すべては苦から脱するためだ
だが言葉や技術で脱しようとしても
それ自体が苦だから逃れられない
だから察知させる、感じ取らせる
その言葉にならない「それ」が伝承される

あなたの日常とは
過ぎ去るものの洪水だ
あなたは一歩も動いていない
ただ怒濤のような光の集束の中で
あなたは感じているだけである

よく
「あの人は強いねえ、現実を受け止めてる」
などと他者を指した会話がある

そりゃそうだ
あなたから見た「他者」とは
そこでそのようにそれをする、
その結果だけをあなたは見ているのだから
予測も思考もない
ボールを投げて落下した
その動きだけを見ているのだ
ボールが何を思案してもいい
落下の寸前に数メートル先へもう少し行こう
そのように考えていて実際にそうしても
あなたからすれば
ボールが数メートル先に落下した、
それをあるがままに見ているだけだ
本当は数メートル手前だったのになんて
思いもしない
ただの自然現象を見ている
ただのひとつの結果、ただの風景

つまり他者とは「その現実そのもの」に溶けている
いわば風景である
あなたが見た他者が
あなたの見た以外の行動を取ることはありえない
その「見たまま」が他者だ
だから常に思考まみれな人は
「あの人は強いね」となる
自分のようにあれこれ悩んだりしないで
懸命に生きている、そのように見える
いいかね、あなたが見ているのは結果だ
あなたが感じるものすべて、
よくいわれる「いま」すら
それを認識した後に「いま」を感じている
だから時間的な「いま」ではない
あなたの指の動きすら
動いたそれを見て「自分の指が動いた」としている
認識とは結果である
ある発生があり、
それが発生した後を見ているに過ぎない
だがいくら思考してもその「見た目」は変わらない
つまり思考には何の力もないのだ

あるがまま、それが悟っている存在だ
一枚の紙、置かれたグラス、
そういうものが悟っている存在である
木は木であり、自らが木であることすら知らない
ただ漠然とその生の中にいる
木を木とするのは外側からの認識であり
木は他の何ものにもなろうと苦心したりしない
そういう概念すらない

あなたにとっての他者は
そこでそのように生きている
だからあなたの「ご存知のあの人」なのだ
あなたから見たすべてはあるがまま
つまり「あなたという個人」以外は
すべて悟っている存在なのだ

だがね、あなたもその外側からみれば
その風景そのものなのだよ
あなたは一日中四苦八苦と思考を巡らせているが
外側から見れば
ひとつの動きしかしていない
とてもシンプルなのだ

あなたの頭の中では
「あれもしなきゃ
これもしなきゃ! どうしよう!」
混雑状態かもしれないが
外部から見れば
あなたはシンプルそのものだ

だがあなたはそれに気付いていない
自分は複雑な問題を抱えていて
常に綱渡りで
人生が一瞬でパーになるような賭けが続いてる
そのように考えている

何なら一日中、
ビデオカメラに自分を映してみればいい
そこに映るあなたは
とてもシンプルな存在だ
思考は映像に映らない
あなたがその映る自分を見て
思考を巡らせるならばそれは連想しているだけだ
まったくの他者として見てみなさい
思考には力はないことがわかる

ただコーヒーを飲み
トイレをして
歩く

そこに映るその人の世界は
ただ過ぎていく

あなたが他者を見るように
自分を見ることができたら
そこには「あるがままの肉体、思考」が
ポツンと置いてあるようになる

そのポツンと置かれた「その人」は
自然に現実を受け入れて生きていく
つまり現実そのものとなる
木が木であるようにね

あなたはただ見ているだけでいい
その人は強いのだから

シンプルを全うしなさい
そこにいながら何もかもが変わる

 

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