本当の自分を発見する(12)

78.右足は右足から抜け出せない

「あなたは体でも思考でも感情でもなく、意識である」これがスピリチュアルマスターたちが口癖みたいに伝えているものだったね。

そして今回の連載では、その意識とやらを探す旅を続けてきた。

だがいつもの「体と思考の自分」が意識を探すのではなく、体と思考の自分がいかに偽りであるのかを知ったとき、つまり雲が去ったときに青空が広がっていることをみてきた。

私も出口を探していたけども、”出口でないもの”が出口を探している限りは、出口は永遠に見つけられなかった。それは右足から逃れたいと思って、どのように右足を動かしても右足からは逃れられないようなものだ。

ところが禅師にしろ聖者にしろ、そうしたマスターたちは現実世界を幻想だとは言うけども、「どうして幻なのか」を説明しない。もちろん「説明していること自体が幻である」から必要はないといえばそうだが、それはマスターゆえに語れることだ。よって人々はその意味を理解せぬまま、目の前に起こる苦しみを「これは幻のはずだ」という思い込みだけで乗り切ろうとしてしまう。

当然それはすぐにしっぺ返しにあう。棒で頭を叩けば痛いことは現実に起きているからだ。

だから痛みで頭がクラクラしているのに「ある聖者は炎に包まれても平気だった」と”我慢すること”が悟りではないのである。なぜならその炎に包まれている聖者はあなたに見えているだけであって、私の世界には存在しないからだ。

79.ゲシュタルト

話してきたように、”恣意的”に私たちはこの世という幻を捉えている。つまりこの世を捉えていること自体が最初からすでに騙されているようなものだといえる。

歓楽街で「今日はぼったくられないぞ」と警戒しながら飲み屋を探している中年連中と変わらない。彼らがどれだけ明晰な判断力を費やし、時間をかけて丹念に店を調べても、その街にいる時点ですでに騙されているのだ。

彼らは完全に気づいていないわけだが、実際この世の流行や風潮といったものはすべてこの原理にある。数千万円の車が並ぶなかでは900万円の車が格安にみえる。己は知らぬ間に役柄を演じており、その役柄に与えられた目的に向かっている。夫婦喧嘩、将来の不安、すべて「役柄の目的」を遂行しようとするゆえのことだ。

こうした相対的な関係性が人間の世界そのものであり「幸せと不幸」「成功と失敗」「好きと嫌い」のボーダーラインは常に人間世界全体に操作され続けているのであって、己の価値観は己によるものではないのである。つまり言葉の世界に生成された価値に人間は常に巻き込まれ、その重層的に折り重なった蜘蛛の巣のなかで「偶発的に生まれ続ける幻想」に、私たちは人生という夢をみている。

だから「思い込むだけ」では幻を破ることはできない。思い込もうとしている己自身がすでに幻だからである。

ところで「だまし絵」で有名なマウリッツ・エッシャーの展覧会が現在日本で催されているが、彼の作品は三次元認識の構造を超えたもの、つまり既存の法則(ゲシュタルト)が崩壊された「リセットの状態」がうまく表現されている。

強いて言えば、彼の作品は単なるトリックアートではなく、人間認識を超えた領域への哲学的なメッセージ(言いかえれば、人間が制限された次元に閉じ込められていることへの示唆)として制作されている。

たとえば彼の「昼と夜」という作品は一枚の図柄が対立していく様子が描かれているが、つまり対立とは「一なるもの」の内的な分割であり、2つで1つであることを示している。まさに私たちの分離分断された現実世界のアナロジーにあるというわけだ。

80.恣意性について再考する

恣意の説明をもう一度しておくけども、たとえば日本人の私たちが「”はなこ”は男性の名前ではない」と、実は何の根拠もないのにそれが当たり前の常識だと捉えている様子のことだ。そもそも「はなこ」と聞いてそれが「何かの名前」だと受け取っている時点ですでに恣意的だといえる。

前回話したように「挨拶」という文字をみたら私たちは「ハロー!」のことだとすぐに連想する。「おはよう」とか「元気?」といったように私たち日本人からすれば、純真で爽やかな印象を持っている。

だが中国では挨拶は「拷問刑」を意味する言葉であり、真逆のものがイメージされることになる。同じ「文字(=挨拶)」をみても心的な印象が異なるということは、脳が無意識にその情報を処理し自律神経を通じて体に与える命令も違ってくることを意味する。挨拶という言葉がナチスのホロコースト(ユダヤ人虐殺)などの残忍なイメージを自動連想されて心拍は速まり全身は緊張状態となるわけだ。

これと同様に、いま目の前に広がる社会の光景をみているあなたが無意識的に連想しているもの、そしてその連想の関連によって導き出されていく法則(=言語セット)そのものが恣意性であり、そしてそれが現実世界の印象(自分の人生)を生み出している。

つまり“恣意性”こそが幻想であり「はなこ」が幻想ではないのである。「オリオン座」はすでにそこに現れているのであって、それをオリオン座だと見てしまっている己自身が「恣意性=現実」なのだ。

よって棒で頭を叩けば”痛いこと”が幻であり、痛みそのものが幻なのではない。痛みは恣意性の結果として形を持って現れている。つまりそうして形を持って現れているものを現実(現に実った)というわけである。

だから「形」が起こされるよりも先行しなくてはならない。形に先行するときに現実は変わるのだ。

時として痛みは快感に変わるときもあれば、不幸が幸福になるときもある。その対象は何も変わっていない。変わったのは己の認識であり、形は己の認識のなかにのみ生まれるのである。エッシャーのキャンバスのようにね。

81.相手ではなく自分を観察する

よって「幻の中に現れたもの」ではなく「幻のメカニズム」自体を己の内に探求しなければならないわけだが、これが「Bタイプの意識」となる。

だからスピリチュアリティだからと現世利益(仕事の成功、生活の成功、人間関係の成功などの人間的な幸福)を放棄するのではなく、

このコンテンツを閲覧するにはログインが必要です。→ . 会員登録はお済みですか? 会員について


Notes , , , , , , , , , , , , ,

コメント・質疑応答

  関連記事