神々の楽園

現実とは観念の集まりのことだ
ではその観念とはなんだろう

たとえば物質というのも観念だ
色や形、手触り、重さ、
それが本当はどんな姿をしているのかは
知ることができない

必ず自分の観念を通じて
それを意識上に浮かべている

ゆえに「姿すらもない」かもしれない
何らかのニュアンスのようなものを
物体と呼んでいるだけともいえる

そうしてアプローチしてみると
「観念」とは何であるかが見えてくる

つまりそれこそが自分の生なのだ

シンクロニシティがなぜ起こるのか
また人生が
「どうしてここにたどり着いているのか」
それがわかるだろう

あなたの思いや心に刻まれていることが
「なにもわからない空間」のなかで
結晶化されているだけのことなのだ

たとえば私はこんなことがよくある

友人に新しい恋人ができる
彼は楽しそうに話してくれる

だが聞いてみると
その彼女の暮らしていた場所は
つい先日に死別した
私の知人女性が暮らしていた街であり
同じスーパーで買い物をし
同じ駅を利用していた

さらに恋人の名前は
その故人と末尾だけが違うだけの
ほぼ同じ名前であり
「山田花子」→「山田花乃」
ニックネームも同じだった

また誕生日は
私の妹と同じ干支、同じ日付であり
その先日に贈り物をしたところだ

さらにその恋人の出身地である岐阜県は
当時の私の仕事で深い関わりを持っていた
つまりその頃、
何度も高速道路を往復していたのだ

そのように日々起こる出来事というのは
観察してみると何かしらの
観念的なキーワードが隠されている

つまりすべてがシンクロニシティなのだ
すべては私の
「観念の世界」をみているだけなのだ

友人も故人のことを知っていたので
その偶然性を彼に伝えると
「ああ!本当だ!」と言っていたが
ここで気付かなければならないのは
友人に偶然が起きたのではなく

その友人と恋人と故人の3人の存在を
「知っている私」がここにいる
ということなのだ

 

ここはどこなのか

私の「知る」とはなんだろうか

知らないものは想像することができない
見たことのない色を
思い浮かべることはできないし
触れたことのない感触や
嗅いだことのない匂いなどを
イメージすることもできない

だから想像できうるものだけを
「知っている」のであり
それが観念となる
つまり人生とは同じものを
知覚し続けるだけなのだ

故人を失っても
友人が恋人を連れて現れたように
「同じ現実」が繰り返されるだけとなる

表面的には「新しい出来事」が
起きているように思える

だがよく観察してみれば
世界は「私という枠内」のなかを
ぐるぐると巡っているだけなのである

じゃあいったい
どのようにして世界は拡大するのだろうか?

起きる出来事は観念を超えて現れないのに
どうすれば未体験を獲得することが
できるのだろうか

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  1. tamatama3 より:
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    • 涅槃の書-自分 より:
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